三瓶諒子 大震災・原発避難 こんなに楽なのは初めて、辛いのも初めて
 3月11日、地震が起きた日は、丁度となりの門馬安子さんがお茶飲みに来ていた。おしゃべりしていたら地震が寄って茶碗が転がるほど激しく揺れた。安子さんは「おせちゃん、早く出て」と言いながら、急いで自宅に帰った。私も急いで家の外に出たが、体の不自由なおせちゃんは結局外には出られなかった。暫くして、親戚の三瓶専次郎さんが心配して見に来てくれた。家には特に被害はなかったが、屋外便所の東側にある石垣が崩れていた。その日は早めに寝た。
 翌12日、家の前の国道114号線は車が数珠つなぎ状態になってひどい渋滞だった。何のことだろうと思った。家に一台の車が寄ってきて、赤ん坊連れの女の人に、津波で家を流された、避難の世中なのだが寒くて困っているので泊めて欲しいと言われたので、どうぞ私の所でよかったらと泊めてあげた。年配の夫婦と若夫婦それに赤ん坊の5人連れだった。
 13日にその家族は青森方面に避難していった。ガソリンが残り少なくなったので、農機具ように買って置いたガソリンから必要なだけ分けてやった。何日か過ぎた頃、この人達が避難所にいる姿がテレビに映ったのを見て、無事避難できたのだと安心した。
 お寺(長安寺)に避難している顔見知りの人が来て、寒くて堪らないので毛布や着る物を分けて欲しいと言うので、着物やおにぎりなどを分けてやった。その人達はその後何処に避難したのか分からない。その夜、三夫夫妻と義母の親子3人が避難してきた。
 14日は、私、おせちゃん、三夫親子で過ごした。佐々木保彦さんが寒くて堪らない、休ませて欲しいとやってきた。町消防団の副団長をしていて、避難者の世話や仮設トイレの設置などで大変な様子だった。
 大和田貞、息子の貞二さんが一緒に来て「早く逃げろ」と言った。不思議なことに11日からずっとテレビは見ていなかったので、何で逃げなくてはならないのか不思議だった。とにかく逃げることにして、おにぎりを握って、三夫の車に5人で乗って走った。どこをどう走ったのか分からない。その日は須賀川の甥(弟・嘉三郎の子供)宅に富めてもらった。
 15日、孫が迎えに来てくれて、東京・葛飾の長男宅に避難した。
 東北道の下り方面は自衛隊の車で一杯、鈴なり状態だった。反対に、上り方面は殆ど車がないのが不思議だった。料金は取られなかった。避難の車中光男から「小高の海側は津波にやられ何もない状況だ」と初めて聞いた。
 
 長男宅に避難して一年は毎日一人で散歩した。おせちゃんは肺炎に罹り、避難先のケアマネ・高橋さんの世話で入院、次に施設ケアセンターに入った。
 長男宅に来て一年ほどは毎晩夫の夢を見た。夢の中の夫は何も話さない。何話さずに夢ばかり見せる夫だなあ、と思った。最近はそれも見なくなったが、今でもなかなか寝付けないことがある。やはり家に帰りたい。その気持ちが夫の夢であり、寝付けない原因なのかも知れない。
 家に帰りたい気持ちが十分の九ほどだ。だけど帰れない。高い放射線量を考えれば、益々帰れる状況にはない。もう一回家を見て死にたいと思う。

 福島第一の6基の原発が完成した頃に、観光バスで構内の発電システムや原発の燃料プールを見たことがある。ウラン燃料がいっぱい入っていた。震災の5カ月ほど前には、原発で働いていたことがある大和田貞・節子さん夫妻と3人で言ったこともある。
 かなり以前に、東海村の発電所にも行った。従業員が防護服に着替える部屋なども見た。正直怖いと思った。家に帰りたいのに帰れないのは原発事故のせいなので、余り原発には賛成はしたくない。電気を作るために無くてはならないものなのかも知れないが、恐ろしいしいところだと思う。現在、原発は一基も動いていないのに、何の不自由もなく電気は来ている。とすれば、原発はいらない、なくてもいいのではないか。
3.11ある被災地の記録

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