佐野富寿 下津島字町14
佐野家は明治の始め頃、新潟は寺泊で船大工をしていた祖父・新之丞が、二本松市百目木の叔父を頼って来県し、今野家(現当主今野洋一)から塩母トメを嫁に迎えて、大正7年に分家して現在地に落ち着いたのが始まりである。因みに祖母の姉トネが今野家を継ぎ、妹ナツが婿を迎えて分家し松本屋を築いた。祖父は大正3年に亡くなったが、大工として赤宇木の今野猛信さんや塩浸の石井商店、石井昭さん宅、松本屋などを建てた。
原発事故 避難中に妻が逝く
原発事故による避難は牛がいるため直ぐには出来ず6月中旬頃まで頑張っていた。この間、自衛隊に何度も避難を呼びかけられたが、牛と一緒にいる、死んでも避難しない、と言った。とにかく、牛たちの行き先が決まらない内に避難するわけにはいかなかったので、畜産組合に売却してもらってから避難した。牛が連れ出される際、5月3日に生まれ耳輪を付けたばかりの仔牛の耳から血が流れ出て止まらない様子を見て、涙が溢れた。あれほど可哀想で悔しい思いはなかった。何でこんなバカなことが起きるのか。苦労して築いた自分の生活が台無しにされてしまう。こんな事が本当にあってよいのか。
私は家を離れたたくなかったが、長男の富寿雄に、とにかく放射能から逃げなければと必死に説得された。病気がちだった妻の貞子は、家を離れて他の地に行かなければならない事態に、活きた心地がしないとこぼした。
妻は、脳梗塞を患って約1年入院するなど何階か倒れたことがあったが、原発事故以前は自宅から通院して元気に寝起きしていた。しかし、ふるさと・自宅を離れた辛さもあったのだろう、避難後に再発して福島日赤病院、中央病院、福島西部病院に合わせて約10カ月入院することとなり、平成25年2月8日に眠るように亡くなった。私は息子夫婦の車に乗って毎日のように看病に通ったが、妻が亡くなった際には涙も出なかった。生涯最大の悲しみなのに。
避難して落ち着かない。自宅に帰りたい。ふるさとの自然の中で体を動かす、散歩する。また、家畜を育て、犬と遊ぶことが生きがいなのに、避難先では何もできなくなってしまった。テレビ、新聞を見ること以外することがない。寝て過ごすしかないのだ。ストレスが溜まり、気が詰まってしまう。私たちをこのような立場に追い込んだ原発は止めて欲しい。
このため現在は、親戚の山本幸男さんが町内・大堀で経営する末の森牧場に、氏の車に便乗して週4、5回行き牛の世話や資機材の管理、後輩指導をしている。健康保持、気晴らしのためのボランテイアである。
牧場は帰還困難区域内にある。原発事故の際に解き放たれ、さまよっていた牛が集められているのだ。この牛たちはどこにも行き場がない。出火はもちろん、処分しようにもできないのだ。仔牛もいる。原発事故後の対策を検討するためにの研究対象として、大学教授なども来ている。