震災・原発事故 愛したふるさとの復興を願う
 末永卓義
 3月11日、東日本大震災は中学校の卒業式だった。中学二年の孫を学校まで迎えに行き、家に帰って来客の対応をしていると地震が来た。二階に上がった孫が怖がって降りられないので助けに行き、激しく揺れる階段を何とか降りてきた。炊事場にいた妻も外に避難した。家の中は障子戸が動き、はずれ、柱も左右に大きく揺れ、いつつぶれてもおかしくない状況だったが、食器が割れたぐらいで特に被害はなかった。体が弱い二番目の孫が大熊町の施設に通っていて、私が毎日室原まで送迎していた。電話で安否を確認し孫を迎えに行った。その間にも何度も余震があった。夜は、本宮市白沢の会社に通って居る長男と孫二人、妻と過ごした。大堀のオンフールに勤めている嫁は夜勤のため翌日になって帰ってきた。
 翌12日、新聞を取りに家の外に出て見ると自衛隊の車が沢山通った。原発事故の状況などは全く知らず、これは何事だろうと不思議に思った。長男は会社の片づけのため出勤したように記憶している。
 原発事故による影響が懸念されので、長男たちは帆とみや市内にアパートを見つけ早目に避難し、私と妻は残った。15日、口調の福島衛治さんから避難を呼びかけられたので福島市内にいる長女宅に避難する手配はしたが、その後もしばらくは家にいた。その間、娘宅の水道が出ないので、大きな漬物桶に水を汲んで運んだりした。早く落ち着くところを探して避難した方がいいと区長に催促され、5月8日に横向温泉に避難し、四か月お世話になった。ホテルのはざっと200人は避難していた。長男夫婦が本宮市内に避難しているので、その近くにと思い、高木仮設の完成を待って9がつ4日に入居し現在に至っている。
 小高に嫁いだ妹のミヨ子は、津波で新馳駆直後の家を流されてしまった。仙台に買い物に行っていて、幸い家族は全員無事だった。妹夫婦は福島市内に、子供達は伊庭や技研に避難している。

3.11ある被災地の記録

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