沢先開拓11 苦労や失敗数えきれず  熊坂信一

 今は亡き両親に一言。入植してから今日までの苦労や失敗等いろいろありました。うちの親父の入植は昭和二十一年と聞いております。親父は八百屋の次男でしかも兵隊帰りで農業の事など何一つ知らない人なので相手は地元の人とおやじのじいさまの計らいで始まりました。
 たばこや山仕事をやり、また養鶏をやっても思う様に行かず、生活も苦しくなる一方で出稼ぎに出る様になり、長くつづく間におふくろが昭和五十七年に五十九歳で亡くなり、また親父も昨年七十五歳で亡くなりました。苦労ばかりの一生だったと思うばかりです。

沢先開拓12 話しきれぬ50年の苦労  小林正

 昭和二十年八月終戦となり、国の政策による緊急開拓事業に伴い、天王山国有林68林班に入林し食糧増産に励みましたが、昭和二十年は冷害にみまわれ作物は穫れず食うや食わずの生活となってしまいました。
 笹の小屋に住むこと何年か、考えることさえ嫌になっていた。冬がやって来ることを知っていながらどうすることも出来なかった。
 とうとう冬がやって来たが保存食は少なく雪が降っても雪を掃く物さえなかった。
 この苦しみは今となっては思い出となったが、その当時はただ茫然とするばかりでありました。
 家族に食事を与えるため雪を掘って野菜を取るなど雪がこんなに降ることさえ知らなかった私共であった。
 年が明けて春がやって来ると木の芽や山菜と食べるものがだんだん多くなって来るが、働かなければ食べてゆけず、朝は朝星を仰ぎ、夜は月の光で一鍬一鍬開畑に力を入れ、食事は粥を啜りながら日中は伐採をして薪を作り木炭を焼いて資金をつくり、生活費や学資に充て、薪と塩とを交換するなどして生活をしていた。
 あの時の苦労は話しても話しきれません。
 家族が病気になっても薬もなければ電話もなく、薬草で何とか持ちこたえる毎日であった。
 この苦労は私共だけで結構です。決して子供や孫には苦労をさせたくありません。
 当地に入植した先輩の方々や同僚が幾多の苦労を凌ぎながら他界してゆく姿を見るとき、自分の身上を考えざるを得なく心細くなること幾たびか、このように生活が安定することさえ思っても見ることが出来ませんでした。
 現在まで頑張って来たのはそのためであり子々孫々まで残したいと思います。

 
 沢先開拓13 苦労も懐かしい思い出に  小林チヨ

 入植して早五十年。月日の経つのは早いものですね。過ぎ去った昔の苦しかったこと悲しかったこと楽しかったことなどいろんなことが走馬灯の様に思い出されます。
 私は昭和十六年に主人と結婚しまして旧満州国牡丹江市に軍人の妻として渡満いたしました。当時は不自由のない楽しい暮らしでしたが戦争もはげしくなり敗戦となり悲しい思い出になりました。引き揚げる途中に二人の子供を亡くして裸一貫になり、子供達の冥福を祈りつつ帰国いたしました。
 昭和二十年九月、主人が復員して昭和二十一年に津島沢先に入植いたしました。四方が山ばかりで周りは木立で何も見えませんでした。きつねが出て来てびっくりしました。
 夜になると電気もなくランプの光だけで淋しい毎日でした。
 食糧難の時代でしたので、食べるのも大変でした。朝早くから夜遅くまで月の光で畑仕事もしました。
 何でも初めての事でほんとうに苦労しました。想像もできない様なことばかりですが今になってみるとなつかしい思い出となりました。

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