原発事故・避難生活
  紺野嘉郎
 東日本大震災、それに続く福島第一原発事故のため避難を余儀なくされ、現在白河市内の借り上げ住宅で避難生活を送っているが、原発事故によりこのような生活を強いられるとは思いもしなかった。
 原発事故後の3月12日以降、いとこやその知人、中に歯誰だか分からない人も含め大勢の人画我が家に押し掛けた。30人ほどだろうか、炬燵にごろ寝した。3月15日に避難するまでの間、全員に食事を提供した。また、津島に避難してきた沢山の人の中には食事も満足に採れず空腹をかこつ人も多く、その人々にも食事を出した。
 津島を出たのは3月15日。避難していく皆さんに毛布や布団を分け与えた。全員が出た後に家の中を片付け、遅れて避難したため行く先が若エア図、とりあえず二本松市東和の避難所に行くと既に満員状態のため、2番目の内孫が嫁いだ田村氏船引の家に世話になることとし、2番過ごした。その後、3月17日に西郷村の三女・昌子宅に行き、6月末まで過ごした。7月1日に現在の借り上げ住宅に引っ越し、ようやく落ち着くことが出来た。
 津島の家を出る際は、2日くらいで帰れると思っていたので通帳や印鑑など最低限のものしか持ち出さなかった。原発事故に関する情報は一切なかった。
 避難後2週間ほどして、愛犬ポチを迎えに行った。呼ぶと駆け寄ってきて、無事でいて本当に嬉しかった。現在は三女宅に預けている。
  
 避難している最中、二本松市西勝田・杉内仮設住宅の集会所において土地改良組合関係の原組の集会があり、長女・智子が出席したその帰り道、運転を誤って自損事故を起こしてしまった。車が大破し、長女は大けがした。奇しくも事故は、避難してからちょうど1年が経過した24年3月15日だった。長女は手術を受け、約1カ月入院した。現在も完全には治らず通院していて、それがとても心配である。
 私はそれまで1回一時帰宅していたが、25年6月2日に一時帰宅した際には、転んで額を切るけがをしてしまった。自宅の状況や周辺を確認しようとして坂道で躓いたのだ。額から大量に出血し、救急車を呼んで病院へ行き、15針も縫合したが、幸い入院までは至らなかった。原発事故で避難して体を動かす機会が減ったため、体特に足腰が弱ってしまったのか。しいて言えば、これも原発事故のなせるわざと言えるだろう。

 今までどおり津島で生活したい。帰りたい。それ以上は望まない。だが、果たして帰ることが出来るのだろうか。帰れるとしても何時のことになるのか。避難生活は我慢できない。だが、どうしようもない。悔しくて胸が張り裂けそうである。
 家にはネズミが入り込んで、大切な書類がかじられ、荒らされたりしている。悪臭もこもっている。本当に残念で悔しい。被害者の心情や避難生活の実態に沿う十分な賠償がなされて然るべきである。
 平成25年6月17日聴取
3.11 ある被災地の記録 浪江町津島地区のこれまで、あのとき、そしてこれから

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