作家佐野眞一は「津波と原発」でこう書く。

 場合によっては逮捕されることも覚悟で立ち入り禁止地区に入ったのは、原発事故に対する大メデイアの報道に強い不信感をもったからである。新聞もテレビもお上の言うことをよく聞き、立ち入り禁止区域がいまどうなっているかを伝える報道機関は皆無だった。
 原発のうすら寒い風景の  には、私たちの恐るべき知的怠慢が広がっている。
 (カバー折り返しの惹句)2011年6月18日講談社刊。

 佐野は三陸取材で第一部「日本人と津波」を論じたあと、次に原発銀座の福島県浜通りに乗り込む。陸前浜街道沿いの「浜通り」を歩いてみたいと思ったのは、夜の森という駅名に、ひどく心ひかれたことが一つだった。その隣の富岡駅は駅舎ごと津波で流されており、駅前の商店街は瓦礫で足の踏み場もないほど壊滅していた。流された富岡駅の向こうには静かな太平洋が見えた。
 一つ北にある夜の森駅は高台にあり、奇跡のように無事だった。駅に向かう無人の街路には桜並木がつづき、満開の桜が誰に見られることなく咲いていた。
 
 浪江に入ったのは、牛の大規模牧場を訪ねるためである。避難命令が出てからもう一か月半も経っていたので、行く前はほとんどの牛が餓死しているだろうと想像していた。
 だが案に相違して、死んで白い石灰粉をかけられた牛は五頭しかいなかった。あとの約三百頭は、牛舎や牧場で元気そうに暮らしていた。

 浪江の牧場を経営する農業生産法人のエム牧場は、県内七ケ所に牧場があり、和牛約千二百頭飼っている。その主力が約三千ヘクタールの浪江牧場だ。
 
吉沢正己牧場長と小林昌典従業員の証言が印象的だ。

 12日、吉沢氏と小林氏が、朝からは発電機とポンプをつないで牛舎の飲み水を何とか確保する作業をしていると、屋根の上に赤色ランプをつけた警察車両が三台やってきた。
 彼らは、ナミエ農場の敷地内に通信機材をセットし、作業を始めた。
「いまの通信は無線だけじゃないんだね。県警のヘリが第一原発の様子を上空から撮影して、その動画データをパラボラに送って、それを今度パラボラからもう一回、衛星に送って県警本部に電送するんだそうだ」
 福島県警の通信部隊はその作業を終えて、間もなく、引き揚げていった。
 「そのとき彼らは、「国はデータを隠している。もうここにはいない方がいいですよ」と、言った」
 「今回の原発事故は重大で深刻だから、国は隠す。私らも撤収して帰れって命令が来たから、帰りますが、ここにはいかい方がいいですよ」と言って、帰っちゃったわけ」
 「間違いなく十二日の朝だった。そしてその日の夕方には撤収命令が出たからって、帰っちゃった」

「津波と原発」

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