福島の今を明石で語る 東日本大震災で三木に移住の女性
福島県浪江町の現状を報告する菅野みずえさん=9月8日、明石市東仲ノ町
「おしまい」と書かれた農産物直売所のシャッター(2018年4月撮影、菅野さん提供)
イノシシや窃盗被害を防ぐためベニヤ板などで入り口がふさがれた民家(菅野さん提供)
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東日本大震災から11日で7年7カ月。いまだ不明者は2536人(9月時点)を数えますが、明石ではどこか遠い出来事になっています。そんな中、震災に伴う福島原発事故で、福島県浪江町から三木市吉川町に移り住んだ菅野みずえさん(66)が、震災からの7年半、福島の今を明石市内で語りました。「終わったことじゃない、あすはあなたのこと」--。こう訴える菅野さんの話に耳を傾けてみませんか。(小西隆久)
菅野さんは岐阜県出身。震災の2年前、夫昭雄さん(66)の実家を継ぐことになり、大阪府から福島県浪江町に移り住んだ。
江戸時代に建てられた古い農家を耐震化し、リフォームした。花卉農業を始めるために研修を受けた1年後、震災に遭った。仮設暮らしなどを経て兵庫県三木市に移住した今も時折、帰還困難区域にある自宅に帰っている。
「2011年3月11日を境に、3月10日よりも以前の生活をなくしました。普通でしたが、とても大事なものでした」
現地で撮影した写真をスライドで上映しながら話す菅野さん。浪江町は子牛の肥育農家が多く、野菜など農産物が豊富だった。農産品直売所の閉じられたシャッターに「おしまい」と塗料スプレーで殴り書きが。
「これを書き、店を閉めなくてはならなかった人の気持ちがどれほどつらかったか、分かりますか」
町のあちこちに、大気中の放射線量を計測するモニタリングポストが立ち、今も高い値を示す。同町の大部分は今でも避難指示が出ており、今年6月末時点で住民登録数1万7792人のうち、町内に居住するのは約4%の777人にとどまる。
「それでも福島県は、モニタリングポストがあることで風評被害につながるからと、撤去しようとしています」
震災後、町内では窃盗被害が多発。菅野さんの知人宅も、窓などに取り付けたベニヤ板がはがされ、室内が荒らされていた。古い家財道具や古美術品などが持ち去られるケースが多いが、すべて放射性廃棄物。リサイクルショップなどに転売され、何も知らない人が買う危険性もある。
「命からがら避難した後も、こうした被害で二重にも三重にも傷つくんだなと思い知りました」
除染され、黒い袋でこん包された土があちこちに積み上げられ、仮置き場になっている。でも国が「景観に配慮する」として黒から緑のシートに変えてかぶせた。ほぼ無人となった町内の帰還困難区域に、これらの中間貯蔵施設が造られるのではとの不安が消えないという。
「こうした福島の不幸を踏み台に学んで、わが身に生かしてほしい。子どもや孫を守るためにできることはたくさんあります」
福井県の4原発での事故を想定した場合、兵庫県の甲状腺被ばく線量のシミュレーションでは、三田市で最大139ミリシーベルト(1歳児で7日間)に達すると予測。66・5ミリシーベルトとされる明石市では京都府宮津市からの避難者約9千人を受け入れる計画だ。菅野さんはその「ずさんさ」を指摘すべきと訴える。
「明石が無傷でいられる保証がどこにありますか。9千人をどこでどう除染して、どの学校や施設で受け入れますか。そんな計画はまだ手つかずなんです」
長く原発と“共存”してきた福島県では、放射能汚染による生態系への影響や除染の進ちょく、原発の廃炉など、未来がまったく見通せない状況が続く。
「原発なじょすっぺ(どうしようか)。原発のおかげで仕事があったのは事実です。でも今は、子どもの寿命がどうなるのかも分からない未来を引き継ぐ、その怖さと悔しさを感じています」
【東京電力福島第1原発事故】2011年3月11日、東日本大震災による地震と津波で、6基のうち1~5号機が外部電源を喪失するなどして、冷却機能が失われた。1~3号機で炉心溶融が起き、1、3、4号機の原子炉建屋が水素爆発した。大量の放射性物質が拡散し、事故の深刻度を示す国際評価尺度(INES)で、チェルノブイリ原発事故と同じ史上最悪の「レベル7」とされた。原発を中心に半径20キロ圏内の住民に避難指示が出された。
https://www.kobe-np.co.jp/news/akashi/201810/0011722863.shtml