90過ぎた巳年の母から、なにか宅配で届いた。さっそく実家に電話して尋ねたら、母の介護をしてる姉が出た。
「あれは何を入れてよこしたの?」
「書いたとおりの衣類だよ」
「衣類って言ったってわかんねべした。セーターなのか、今頃なんで」
「あれはおまえが着て寝るパジャマと肌着だよ」
「そんなもの捨てるほどあって、奥さんも俺も捨てられない症候群で困ってるぐらいだよ」
「だからおまえに誕生祝いすんだってよ」
「今頃なんで、急にほんなごどすんだべ。なんか謎かけかな」
「いいや、本当にそのまんまの誕生日祝いだよ」
「それにしても普段やんねごど、なんで急にすんだべ」
「いやね、だからわたしも聞いたのよ。これがらは、実際にここにいる母さんが、わたしに言ったこと、あんたに伝えます。
『わたしはこれまで91年生きて来て、十分に生きた。そろそろ、頭もぼけてきた。自分の考えで何かできるのは今のうちだ。それで考えたんだが、これまで息子の英朗から誕生日に必ずと言って誕生日のお花を届けてもらってきたけど、息子には一度も誕生日のお祝いなんて、したことない。らいねんまでわたしが生きてる保障は何もない。だから今のうちに誕生日祝いを送った』
俺「沈黙」・・・・。
「これ、お姉ちゃんの演出か?」
「ほんなごどねえてば。ここにいる母がそういったとおりに自分で考えて、お金渡されて、どこでもいいから衣料店に行って、パジャマと肌着をきれいな包装紙に包んで買ってきてくれって言われたから、そのとおりしたんだ。私は言われてその通りにしただけだわ」
俺「沈黙」
いよいよ、来るべき時が来たな、と思った。今年の正月には、いつものように母は、訪問した私の子ども3人、孫2人、娘たちの婿さん2人、ぼくの最愛の奥さん(1人)に、お年玉を最後に手渡して、「また連休にね」と、しばらく先の五月まで会える次の機会を楽しみに分かれる。
母はいま、自分の畑で春耕し、種まきの準備を楽しんでいる。歩いていけない自分の畑まで、電気四輪車でトコトコと九時頃行き、とことこと昼に帰ってくる。水道をひいてるわけでないから、ペットボトルに水を入れて少しは自分で運ぶが、あとはふぐたますおさん状態で同居している姉の夫とその息子に頼んでペットボトルで水を運んでもらっている。
そんな母と、直接言葉を交わす機会は少ない。
ふっこうステーションというのは、この母の寿命と、自分の寿命を勘案して、被災地の故郷で何が出来るかという限られた時間と労力で考え出したイベントである。
いま多くのボランテイアが、南相馬市の助力になりたいと、次々に移住してきている。
しかし、復興のためなんだか、自分探しなんだか、ぼくにはよくわからない。才能のある人々は、南相馬市で気の利いたボラセンを作ったり、カフェを立ち上げて商売も軌道に乗せたりしているが、原発事故で新聞やテレビに出て面白そうだからという理由だけで、移住してしまった人の、自分の人生の分岐点をみきわめて、予定どおり去っていった人もこれから去ってゆく人もいる。みんな自由だしそれぞれの選択である。いつまでいてくれる賑わいなのかなあ、とぼくはぼんやり考えているだけで、いいの、わるいの、なんて批評はしない。それは各人の自由だし選択である。気に入ればここに住めばいいんだし、だいいち僕自身が福島市在住のよそものなのに、なぜか母と姉が住んでいるというだけで、ぼくの家に泊まれるからと言って役場からは一銭も出ない。よそのホテルに泊まるより便利だからそうしてるだけで、実は困っている。きれいなシーツもベッドメイクも、末期慢性腎臓病のぼくの体を心配して料理を準備してくれる姉にすべてやらせて、寝て、福島に戻るだけ。バス代もそうだった。いつも妻に頼み込んでバス賃を出してもらって原町との眞を往復する。機嫌の悪いときには出ない。したがって、母か姉に小遣いとして出してもらう。もっとも、そんなあおほなことしばらくしていたが、何年か目からふっこうステーションの岡田事務局長に、市役所と交渉してもらって、初めてバス代を南相馬市の財政から拠出してもらえるようになった。嬉しかったね、これは。でも、まだスタッフの従兄弟たちの市内も自分の車で動いてくれるから、かれら文彦と裕嗣兄の活動のガソリンは、一銭も出ていない。親戚だが財布は別なので、ほんとうはふっこうステーションの予算に計上すべきだが、自分の町のためだと思って、申し訳ないながら自前で動いてもらっている。このへんのどんぶり勘定は私のずぼらさなので、きちんと公私を区別すべきだと思いながら、ずるずるとやってきてしまった。
、福島市の渡mあだお礼もしていない。辺司さんを講師に呼んで面白い常磐線の講話をしてもらったときも、友達だから出て来て喋ってよと頼んだだけで、ガソリン代もまだ出していない。伯父さんすじの門馬俊之さんも、講師に無理やり出てもらったが、ガソリン代をぼくが出すべきところなのに、m
最初、ふっこうステーションは、イベントをやるごとに、自分がバス代を払って、小高町まで出向き、従兄弟や友人に助けてもらってきたのも、私的な交友の範囲だけで、とおく仙台市に住む無二の親友の高篠君には、ふっこうステーションのイベントすべてに参加してもらって、写真撮影の活動をサポートしてもらってきた。第一、僕が原町無線塔物語という面白い原町の郷土史を書き上げるっことができたのは、彼に教えてもらったからこそ、それを延長してしつこく何冊も本にしてきたからこそである。
それなののに、高篠に満足なお礼をしたことなどなかった。
母の今回のものいいとまったく同じだ。
明日死ぬかもしれない身の上が、あと何年生きて、何が出来るか、なんて傲慢なことをあたりまえに考えている自分は、いったい何者なのか。
聖書はいう。
神が許すなら、明日これをしよう、何をしようと、言うべきだ、と。そして母は、いまそれに気が付いて、行動した。
今、息子に毎年の自分の誕生日に花を送ってくれた息子に、いまのうちに何かプレゼントしよう。何を、よりも、今自分が実際にやることが大切なんだと、思いついた。
これは、死を前にして初めて神の知恵に到る、ということだ。