福祉会館にて

伊藤さん、敗訴する

 月刊むすぶ586号
 伊藤さんは新潟県生まれ育ち。新潟では有名な総合機械メーカー新潟鉄工に高卒で就職し、退職後、関連のIT会社を経営したり、関連会社で働きながら生活を営んでいた。親の介護で退職し、人生を再構築するなか、いいたてふぁーむに職を得ることになった。そしてそのその仕事にやりがいを感じた一年間を過していた。
 自己紹介をかねて、活動の一端をスライド・ショーに映写して見てもらった。
「ここに写っているのは、IT産業に勤めるサラリーマンです。会社の命令で、そこに行けと言われてきた人たちです。」
 それまでの伊藤さんの姿そのものだった。
 スライドが変わる。
 「これもそうです。みんな、会社に言われてきた人たちです」
 飯館村に来て、福島県でも所得が低く、人口も少ない。それまで私は農業をやったことがなかった。しかし、それまでの66年間の生涯に比べても、それ以上の感動をここで感じました。
 20113月11日までの村の人口は6100人。同じ面積を東京に比較しますと、同じ面積に300万人以上の人間が住んでいます。人間の社会は、人間がそこで生きているだけストレスがあって、しかも自然が荒らされています。村の自然は、それだけ清潔で美しいんです。
 所得は低いと言っても、村の暮らしというのは春は山菜、秋はきのこ、山の幸に恵まれて、豊かな食生活があった。
 いいたてふぁーむを立ち上げた株式会社エム・オー・シー(MOC)は、訳一億円を投資ている。
 そんな親会社の期待に、伊藤さんは十分に応える成果を一年目に挙げている。伊藤さんたちが精魂込めて作った米は、社員を中心に人気を博していた。
 そしてIT企業という仕事柄、どうしてもメンタルヘルスが必要になってくる。その課題を克服する場として、いいたてふぁーむは、親会社からも認知されるようになってきた。
 さらに新たなビジネスとして、農業を一部門として育ててゆく、そんな夢を経営陣と話し合う。
 原発事故後に、伊藤さんは避難生活を送りながら、何とかいいたてふぁーむを再開できないものか。
 いろいろと模索を続けてみた。経営陣も、代替え地を探したりしながら、農業部門の存続にこだわっていた。しかしそれは実現しなかった。結果、伊藤さんは管理人の仕事を失ってしまった。

その後の経緯を最終準備書面では

 原告は、MOCが代替地で施設を行うことを期待していたが、それがかなわなかった。
 原告は福島県及び新潟県のハローワークに行ったものの、年齢不問とあっても、実際に問い合わせをすれば、70歳という高年齢では、遠回しの言い方で断られた。また実際に求人が出ている仕事は、豚舎の清掃や鶏の給餌といった作業の仕事ばかりで、原告が創意工夫をしたものを発案し、形にしてゆくという仕事ではなかったし、いいたてふぁーむで行っていたような減農薬や有機栽培を実現しつつ管理人の業務を行うという仕事先はなかった。

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