311以前
1984年1月から2月にかけて、初めて南米アルゼンチンの「コスキン音楽祭」という中南米民族祭典を訪問し、ブラジル在住の福島県浜通りの相馬郡旧南相馬市と浪江町など双葉郡出身の移民一世たちを歴訪した。彼等は昭和初期に貧困な相双地方からブラジルへ移住し、日系社会という「もう一つの日本」であるコロニアと呼ばれる社会を形成し、戦前の価値観を温存しつつ西欧植民地の文明との複合文化を創造しつつあった。
そのころ私は福島県伊達郡川俣町の音楽教師と結婚し、川俣町の中南米音楽ファンが創始した「コスキン・エン・ハポン」という南米の音楽祭を模したアマチュア全国祭典を主催し、その代表として福島県知事からコスキン市長への親善メッセージを運ぶ役として会主宰者を引率する旅であった。
初めての海外取材でたちまちカルチャーショックの渦に取りこまれて、それまでの時間給の地元南相馬市の農業高校国語講師をさっさと辞めて、商店街から広告を貰ってタウン誌を創刊し、稼ぎの足らない分を県内の地方月刊誌のフリーランスのライターになった。
すでに田舎の商店街は大型スーパーに客が集中し。在来店が枯れる旧市街と駅前通りを中心に「シャッター街」化が進んでいた。
小さな平凡な町は「ここには何もない」とうそぶく若い世代が、18歳になると当たり前のように都会へ出てゆく。
だから、311複合災害が東日本一帯を襲った時に、マスコミで報道される郷里の津波で全滅した海岸地帯や空っぽになった街並みがテレビに映った。残っているのは体の動けない病人か高齢者とこれを介護する家族や役所のスタッフ。原発事故でほとんどの住民が自主避難した。あとは市外、県外に避難したかわいそうな体育館や公共施設に段ボールで暮らす「かわいそうな避難民」の姿が延々と放映された。
全国の孤独な都会の郷里出身の若年も中年も壮年も、こころを痛めた。元気で義侠心ある者は、食糧や水を車に積んで故郷に入った。
ガソリンなど緊急物資を満載した貨物トラックの運転手が、仙台・宮城県側の県境で、また県内の中通りといわれる浜通りに接する郡山・三春あたりで車を捨てて帰った。放射能がどれほど怖いかは、テレビも新聞も広告も抜きで朝から晩まで教育してくれるからだ。
誰も死にたくない。職務として倫理的義務があっても命が惜しいので、平均的人間なら当然だろう。けっきょく住民自身が県境まで自分達で貴重なガソリンを工面して物資を取りに出向きトラックごと運び入れたのだ。
南相馬市の桜井市長は「政府の兵糧攻めにされている」とYoutubeで訴え、NHKニュースで訴え、泉田新潟県知事が「被災者を新潟に連れてきてくれ。全員を受け入れる」と最初の電話を南相馬市長にかけてきた。国も東電も災害協定で原発事故の一報を入れる義務を果たさず、何の情報もなかった。桜井市長は最も困難だった初期対応で不眠不休で対応し二週間後に県庁隣の自治センタービルに仮設された県災害緊急対策本部に出向き市の要望を直接伝えた。佐藤雄平知事は廊下で桜井とすれ違った時、初めて桜井に気が付いて「おお桜井君。大丈夫だったか」と声を掛けた。それですべてだ。それで終わりだ。無能な知事だった。
周辺県の疎開受け入れ自治体が名乗りをあげて、まっしぐらに大型バスが続々と南相馬市を離れた。これらのバスも、姉妹都市を提携する世田谷区が派遣したものだった。
311以後
東京で鬱屈して暮らしていたS君は、20代。人間関係が濃厚すぎて田舎の南相馬がいやでいやでたまらず都会に出たが、311で故郷の様子を知るや、考える暇もなく住んで居る町の知人に呼びかけて、緊急物資を南相馬に送るボランテイア活動に身を投じた。
アルバイト人生の中で、これほど高揚した時期はなかった。
大阪で暮らしていたKさんも、田舎が嫌いだった。高校を出るとすぐに都会に出たかった。大阪の男性と結婚し、離婚したがそのまま住んでいた。故郷とは縁が切れた別の世界だったが、気軽だった。自分の人生は受け入れようと思っていた。そこへ311が到来した。
群馬県大泉町は南米人が人口の二割を占めるほどの外国人労働者が住む町だ。そこで浜地生まれのTは日本語の通じないブラジル人労働者の通訳や法的援助をし子弟相手に日本語を教える学校を経営している。移民生活を生かして工場経営者への異文化解説をし、夫人は「地球市民賞」を受賞したこともある。
10年前に周辺3町が合併して出来た南相馬市の旧原町区は、さらに昔の昭和29年(1954)に中心街の原町と4つの周辺村を合併してできた。このうちの大甕村というのが私の生家の500m隣に、Tは生まれた。数奇な運命をたどって彼と出会い、全ブラジルを彼と同朋を歴訪するツアーで巡ったのが1984年のことだ。
その彼から「福島に行かねばならなくなった」と電話してきた。311の一週間後、ぼくの誕生日に、原町から避難して来た実家の全員が祝ってくれた日。
土曜日の夜、少ないガソリンで途中でガス欠にならぬかぎりぎりで。
彼の長兄が、大熊町の双葉病院に入院していた。朝日ほか在京の大新聞はじめ、双葉病院スタッフを「患者を見捨てて逃げた」と猛攻撃した一件を覚えておられるだろうか。
森功のノンフィクションで御存じのことと思うが、実は自衛隊が患者救助という名目で、無理やりバスやトラックに押し込んでいわき市の体育館に移送したために、そこで20名が死んだ。総計50名が死んだ。その中の一人だった。
伊達市旧保原町の山間の松ケ岡病院。そこで息をひきとった男性の、遺家族として連絡が行った。遺体を引き取ってくれと。
伊達市は、沿岸の相馬市の隣り町だ。相馬の火葬場で間に合わないため、伊達市の火葬場を使用していた。津波の犠牲者が続々と運ばれてきた。山の中の火葬場は焼き口が二つだけ。片方の焼却炉は相馬市から運ばれてくる遺体用で、フル稼働だった。
日曜日、彼と彼の息子の二人だけが出席し、それに私が加わって三人だけの骨上げをした。葬儀場な天井は、地震で崩れていた。電気はセーブしていて、暗かった。