小林盛長自叙伝 南米大陸に夢託す 下

 第十七章 日系人の高橋さん

 マラリヤのため痩せ衰えて、歩くのも蹌踉めき、青ざめた顔でベンチにいると、日系人らしい中年の男性が近寄って、私達にどちらまで行くのですかと尋ねて来たが、少し不安に感じ、しばらく返事をしなかった。
 苦労して脱出したのに、返事したばかりに脱出者と判り再びイツベラ地区に戻されては困る思いと心配のためであった。
 中年男性は高橋さんと名乗り名刺をくれた。リオデジャネイロにて宝石店を営んでいた紳士であった。私たちが日本語で会話していたのを高橋さんが気になり、話しをかけたとのことであった。サンパウロに行くなら一緒のバスで行こうと案内されて高速バスに乗る。バスの内装は素敵で日本で見たことのない豪華でリクライニング式であった。席に座るなり疲れのためにすぐ眠る。
 サンパウロ市に着いたのは、八時間後の夜明けであった。ホテルに着くなり高橋さんかめぐら巡り合いの記念として宝石を頂く。朝八時に起きてホテル代の精算をしようとしたなら、ホテル代全額を高橋さんが支払ったとのことでした。初めてお逢いした方が、宝石、ホテル代など不思議でならなかった。・世の中に親切な神様もいるものだと感じると共に、いつかは高橋さんに恩返ししようと心に決める。
 サンパウロ州にはソロカバナ線、セントラル線、日系人が沢山住んでいたパウリスター線があった。パウリスター線の木炭汽車に乗り、二十八時間かけてベルジニヤ地区の田原さん宅(仲内さんの妹の家)に四月一日午後五時到着する。田原さん宅で五日間も休養させて頂くと共に、静養中に生れて初めて小豚の丸焼きを御馳走になったお陰ですっかり元気を取り戻しました。

 第十八章
 岩手県出身の千田卯吉さん

 田原さん宅から約百キロ離れたパウリスター線のエラプル町から約五キロ入ったパトリ地区の千田さん宅に、昭和二十九年(一九五四年)四月七日からお世話になる。
 千田さんはパトリ地区では大地主で二百町反所有していた。家族構成は千田さん夫婦、長男夫婦、次男夫婦、三男夫婦、長女、次女、三女、四女、孫三人の十五人で協同作業をしていた。
 私達は五町反を借りることにして、綿花、落花生、陸穂を作付けすることにした。農作業は機械は一切使わず、気質のおおとなしい「普通の馬より小型」ロバを二頭引きにして作業するのであるが、よく訓練されたロバで、進め、止まれ、右折、左折、すべて号令一つで行動するのに驚いた。四月中旬頃は綿摘み時期で、大きな袋を腰に下げて綿花を一つ一つ摘み収穫作業をした。
 慣れないため指先に綿殻が刺さり出血し、白い綿花が赤くなった。三男の利夫さんに再三摘む方法を習い、ようやく慣れた頃は収穫も終った。
 現地のカマラダ(日雇人)を二人雇い鍬でメンドエン(落花生)の除草作業の時、幅約一メートル、長さ約五十メートル以上ある場所を私と一緒にカマラダも作業を始める。私が半分まで行く間にカマラダは終わっている。それに私が終るまで、のんびりと寝転んでいる。再び汗をふきながら懸命に十メートル進む頃には、前と同様に終って寝転んでいる始末。現地のカマラダの考えは主人と同じ仕事分だけすればよい…、アルモサ(昼食)と呼ぶと例え一メートルだけでも残す。日本人なら少しの事なら、すべて完了させてから食事にありつく習慣が身についている。
 カマラーダに聞いたところ明日があるから残すそうであった。いかにも大陸で熱帯国、のんびりしていた考えであった。利夫さんにアドバイスを受けて、雇用していたカマラダを解雇し、新たに二人を雇い、一人をリーダー格にして仕事を任せ、私は離れた所で別の仕事をしていたところ、仕事は捗るため気が焦ることもなく順調に仕事が進んだのであった。本当によい経験と額の汗は無駄ではなかった。

 第十九章 バトリ地区青年会

千田さん宅に来て間もない五月初めに、バトリー地区の日系人達の青年会に入会し、カミニヨン(トラツク)に男女二十二-三人乗って、ピクニックに行ったことや、地域の運動会があり、千五百メートル選手として出場、なんと三位に入賞する。
 青年会の依頼で日本漢字の書き取り練習も教えた、日系人との交流を深め楽しかった。一時も早く現地のポルトガル語を身につけようと、青年会の会合には休まず出席するも、日系二世同志はポルトガル語で話し合い、私との話し合いは遠慮してか日本語のため、さっぱり言葉は上達しなかった、このままでは駄目人間になると感じると共に、早いうちに日系人集団から離れて現地人集団に入ろうと思った。しかし青年会の懇談会はすばらしい「なごみの極地」の感じであった。
 十月になって気分転換に千田さん家族のトラックに便乗して、川に魚釣りに行くも三メートルに近いスクリウ(川蛇)に出会う。蛇は川辺の穴に入り込むが、三人で逃がしてたまるかと必死になっておさえるも逃げられ、ああ残念であった…。
 パトリ地区の青年および家族たちには何かとお世話になりました。農家では販売されている石鹸は使わない。食糧用の豚をトサツするのは許可はいらない。豚肉の良いところだけ食糧にして、残りの頭、骨身、臓もつはソーダを入れて石鹸を作る。自家製の石鹸となる。
 当時驚いたことに各家庭にビール三袋はいつもあり、日雇人にいつも白由に飲ませていた。(一袋二十本)それにナス苗は三本あると大家族でも一年中間に合う。いかに土壌が肥えている証拠である。あらゆる果物は豊富で満足であった。
 パトリ地区で働いている間に三度のマラリヤ再発があり、体は衰弱ガタガタであった。
 その内の一度は農作業中で、震えと高熱が全身を襲うも負けてたまるかと我慢して作業しているうち気を失い、落花生畑にのめり込んでいたところ日雇の黒人アントニオに助けられた。このままならハゲタカの餌食になるところであった。
 作物の外敵に蛾がいる。綿芽が五-六センチに発芽した頃が蛾に対して一番食べ頃であろう。蛾の大群がやって来て、夜中に一-二反歩の芽が食われ大被害を受けたこともあった。
 蛾の利口なのに驚いた。最初の夜は新芽を運びやすい大きさにねこそぎに切るだけ。翌夜は水分が取れて軽くなってから巣に運ぶ。正に生活の知恵であろう。(綿芽は一毛作で芽が食われると再び芽が出ないので困る)

 第二十章 帰化手続

 千田さんにお世話になって、四月七日で丁度一年目になるので、仲内さんと二人で五町反の借作料を千田さん宅に支払いに行くも、今回はすべて無料にします。収穫で得たお金は生活費にお使い下さいとのこと。
 でも綿花、落花生、陸穂は順調な収穫であったので、再度受け取るようお話しするが、千田さんは受け取らなかった。頭が下がる思いと感謝の気持ちでいっぱいでした。日本の両親にこの旨の内容と千田さん宛に礼状をお願いすると早速千田さんと私に便りが来ました。両親からは一ヶ月一回と、東京に就職していた弟(利長)からは再三便りがあり、心の励みになりました。
 兄、姉達にも時折便りするも返事はなかった。通信の無いのは元気で暮らしていると思い、夜空の星を何時間も眺めていた日もあった。
 農作物は何年も無肥料での収穫には驚いた。土地が痩せると新しい土地を求めては森林を伐採して、作付けをする繰り返しである。そのため農家の人達は同じ土地に永住することはないようであった。痩せた土地に牧草を蒔き、やがては牧場となる。
 千田さんのお陰で少しの現金だが、初めて預金することが出来た。自分の権利を得るにはブラジルに帰化しないと資産物を買っても自分の名義に出来ないことを知り、大使館に帰化手続きをすると、バイヤ州イッペラ移民地からの脱出者と判り、帰化手続きは困難であり、暫くの間待つことにした。そのためただ同然の牧草畑百町反買えなかった。

 第二十一章 自動車整備士志す

 ブラジルは大陸のため、大型トラックが積物を積んで頻繁に往来する台数が多い。「直観的に農業をしているより自動車の整備技術を身につければ、やがて日本に帰ってもこの枝術なら飯が食えると思い」、早速イラプル町に行く。
 当町には自動車整備工場が日系人一工場と現地人三工場があった。ポルトガル語をはやく覚えるためにもと思い、イタリヤ系人の経営する工場を訪ねて見習いのお願いをするも、私の話す言葉も意昧もなかなか理解できず、又私も相手の話す言葉が早口のため、さっぱり理解出来ずに手まね、足まねをして、なんとなく解釈したが、技術を教えるのだから習得料として一日当り三十クロゼイロ(当時日本で三百二十円)くださいとのことであった。とんでもない条件であると思いながら、次に日系人の山本自動車整傭工場を訪ねた。お互いに日本語で話すので交渉は早かった。イタリヤ人との金額の3分の1の、十クロゼイロでよいとのこと、私には一年も二年も支払う手持金がないので仕方なくあきらめる。お国が違うことは、日本とはまったく習慣が違うものだと感じる

 第二十二章 レストラン経営の圷(あくつ)眞一さん

私が先般町に出掛けて自動車整備工場に就けなかったため、あまりにも萎れていたと見え、利夫さんに誘われて、気分転換に百五十キロ以上離れた、パラプアン町に木炭の汽車に乗って遊びに行き、ゆっくりと映画を見てから日系人経営のレストランに入り、「生まれて初めて分厚い特製の焼肉を子供に返ったように夢中で食べていると」、食堂の主人が寄って来て、お客さんは日本語で会話なさっているようですが、最近日本から来られた方ですかとたずねられた。(当時私達の年代の日系人は皆さんポルトガル語で会話なさっている)。
 利夫さんが私の事情をポルトガル語と日本語を交えながら解説してくれた。いろいろと話が弾み親近感を覚えた。
 なんと食堂の主人は私の生家の隣里で現小高町井田川出身の圷眞一さん(当時六十歳以上)であった。人生の運命は不思議に思えてならない。それに生家の隣組内の木幡産婆さんが叔母であった。圷さんの話によりますと、私が当時住んでいたイラプル町パトリ地区の隣町、ジュンケイロポリス町で次女ツタ代さんの主人磯目喜代次さんが洋服店を営んでいるとのこと、やがて町にでる気持ちが定まったなら、一度磯目さんの所に行って話し合ってみたらと語って下さった。
 帰り際に先程食べた食事代を利夫さんが支払おうとしたが、圷さんはこの食事はサービスしますとのことで、御馳走になりました。本当に日系人は心の広い暖かい方で感謝いたしました。
 帰りの汽車で、これから自分の進む道について利夫さんと相談すると、君は体力もない。手職を身につけながら、ポルトガル語を勉強された方がよいと助言される。
 早いもので私がブラジルに来て、一年八ヵ月経過したが、気候と食べ物に慣れただけで、前途は闇の闇の中であり、内心は気がもめるばかりであった。

 第二十三章 進路の心得

 自分の気まぐれで、農業従事をやめて、無謀に町に出ても駄目になると思い、自分の目標を明確にして、お店探しを始める。
一、日中のみ働ける現地人経営のお店。
二、夜は磯目さん経営している洋服業の見習い。
三、夜間学校に通うこと、
四、自分の望みが達成しないと感じたなら、即農業従事に戻る。
 四つの条件を自分が決意したことで、肩の荷が軽く感じた。まず磯目さん宅にあいさつに行き、先日圷さんにお世話になった旨、率直に申し述べると、圷さんから手紙が届いているので、私の身の内は知っていたので、それ以上は語らなかった。これからお世話になりますのでよろしくお願いしますとあいさつする。但し午後だけ働きたいと申すと驚いた様子であったが、承諾してくださった。
 会話がスムーズに出来ることも先決のため、自分に合った現地人の店探しに街並を歩き数件訪ねるも、なかなかなかった。逆に相手も会話の下手な、へんな日系人と思ったに違いない。
 しばらく歩くと、少ししゃれたお店、エスクリトーリオ(会計事務所)の看板が目についたので、訪ねると、支配人は食事に行ったとのことで、少し待っていると、大男が店に入って来たのでびっくりするも、なんとドイツ系人の支配人であった。体格は大きいが、話す言葉は物言のやさしい方で、私の話す言葉を何回となく聞き返し、笑顔でOKしてくれたのでうれしかった。これも偏に先人の日系人が築かれた、日本人は勤勉であるとの信用のおかげで、雇ってもらうことになったと感謝すると共に、いかなる場合でも日系人の顔汚しは絶対にしないと決めた。

 第二十四章
 ドイツ系人の会計事務所に就職

 自分の目標にしていた現地人経営のお店に、昭和三十年(一九五五年)四月一日(十九才)から勤めることができ安心する。毎日一時間早く出勤し整理清掃を済ませるので会計事務所のドウノ(支配人)はとてもよろこんでいた。約束の勤務時間は朝の九時から四時までであったが、ドウノは私に三時になったら磯目洋服店に行きなさいということで本当に助かりました。
 私が夜中のアルバイトで頂いた、映画の入場券を毎月数枚差し上げても、ドウノは従業員にやらず取り引き先のお客様に椅麗な封筒に入れて差し上げていた。やはりお店のお客を大切にする心得であると感心しました。私は殆ど雑用で、お得意先のお店にビスクレッター(自転車)で書類届けと書類を預かる仕事であった。アルモッサ(昼食)はドウノ宅で食事をするのでお金はかからなかった。いつも栄養を充分に考えた料理のため、農業従事していた頃より体重が十キロも増えたが背は伸びなかった。
 毎週土曜日半日、日曜日休業のため日常の会話を早く覚える事が肝要であると思い、大勢人が集まる教会に行き、現地人同志の会話を拝聞し、意味の判らない言葉は早く覚え、会話も少しづつ上達するも、読み書きは思うように出来なかったので、会計事務所のドウノに夜間学校に通いたい意志を伝えると賛成して下さった。但し夜間学校の生徒達はライバル意識が強いらしいから注意して学んで下さいと助言される。

 第二十五章
 夜間学校ジュンケイロポリス

 義務教育を都合上日中に受けられない人のために夜間に学べることを、町に出て二ヶ月後に知り、私も日中は働くために夜間で学ぶには好都合であったので、早速夜間学校に一人で行き、入学したい意志を申すと、三日後に入学してもよい承諾の連絡があり心が弾みました。
 憧れのエスコーラ・デ・ノイテ(夜間学校)に通うことになった。本来なら二月初め人学、十一月末卒業であるが、私は特別扱いで六月入学させていただいたので、懸命にポルトガル語を学びました。入学当時から私の名前モリナガと呼びにくいため、セニオル・モリヤと皆さん呼んでいた。人種もいろいろ、生徒数二十一人男女共学、日系人は私だけでした。私の話す言葉のアクセントがおもしろい、と、生徒たちは再三笑っていても早くみなさんと仲良しになった。
 夜間学校はいつも宿題が出て、早く出来た人から帰す習慣で、私は自分なりに頑張るも、いつも最後に残り、掃除当番であった。先生が教科書を読み、生徒は先生が読んだように文書の練習の時、先生が再三ビナーグレと読むので、私もビナーグレと聞き取りそのように文書し先生に提出すると、クスクスと笑うのであった。字体も間違っていたが、発音通り文書するのではなくクイッション(、)のことであった。
 先生もモリヤは本当にポルトガル語を知らないと感じたでしょう。私も自分ながら呆れて笑いだしたこともあった。作文の時間は私に配慮して下さって、単語に自分が思ったこと、知っている言葉を付け加える練習であったが、文書字体の間違いも大分あったが、お大人の幼稚であると理解して、何事も親切に教えて下さった先生でありました。
 入学して三ヶ月目に算数の宿題が出たので、懸命に解答し、たまたま私が一番先に帰校する。いつもなら現地人のアントニオ(半黒人)が一番の解答者なのに二番であった。
 翌日アントニオが私に近寄って来て、昨晩なぜ一番で解答したと因縁をつけ、いきなり刃物で私の左胸を刺し、血だるまになった時は殺されると思った。
 私の仲間三人程助けてくれたおかげで命拾いをしたのである。多分日本人に負けたのがくやしかったのであろう。負けるは勝ちと思いうかつに手は出さなかった。
 このことを仲間が先生に告げると先生(女性)はアントニオ本人を教壇に呼び出し、本人の顔面をスリッパで数回叩き鼻血が出た。これは二度と繰り返さないための戒めであつたと思う。私は先生に連れられて、近くの薬局店に行き応急手当を済ませた。その足で洋品店の裏口から入り私に派袖のランニングを買って下さった。
 今日はこのまま帰りなさいと言われるも、この程なら大丈夫ですと安心をさせて、授業を受ける。
 十数年過ぎた今でも傷跡がはっきり残っているようだ。家内の友人家族と県内の温泉旅行に行って、露天風呂に浴った時のこと、胸の傷はいつ大手術したと聞かれた。
 これはね、ブラジルの夜間学枚に行った証拠ですよー。話に華がさき長時間の入浴のため、二人とも湯あげをした、あっはっは。
 夜間学校では男性の友達や女性の友達が沢山でき楽しく六ヶ月過ぎた。
 十一月は卒業式であった。先生から来年の入学式の二月にはセニオル・モリヤお逢いしましょうと堅い握手をするも、これ以上夜間での学習は危険と感じると共に、二度の悪夢を見たので残念ながら進学はしなかった。
 短い歳月でありましたが、本気で勉強させてくれた先生に感謝しております。よい生徒
の仲間にも巡り合えたのも財産の一つでした。ブラジルの義務教育は一年生に入学することは簡単であるが、各科目の採点が五十点以上取らないとへペチ(落第)となり、二年生に進学出来ない。義務敦育六年生まで一度もヘペチしないで卒業する人はクラスの十%程度のこと、そのため各学年ごとに一度づつヘペチすると十二年間掛ける計算になる。二~三回ヘペチするうちに、体が大人以上になり、恥じて休学する状態であった。

 第二十六章
 ドイツ系人は無駄は許さず

 当時の日本より物は豊富であったが、紙一枚一寸程の鉛筆でも無駄にしないドウノ(支配人)の考えを従業員が守っていたのに驚いた。ケチケチした物の見方でな、物を大切に使えの考えである。
 従業員三人の誕生日などは、ドウノ宅の庭先で豪華に祝ってくれる。大腹なところもあった。
 磯目さんの洋服店も年ごとに忙しくなって来たので、会計事務所を丁度二年目で退めることにした。
 ドウノはお別れ会を催して下さった席で、このデポジタ(貯金通帳)はお前に積んであげたお金ですと私に渡された時は、嬉しくて感謝感謝であった。それと言つのも、二年前“就職する時の条件は、言葉を覚えるためどうか働かせて下さいとお願いした身分であったからである。
 人間直面目に接すればお天道様はみくぴることはないと諺にあることを身に染みる。異国人の人柄を知るためにも二年間は貴重な歳月でありました。本当にありがとうございました。

 第二十七章 磯目洋服店に就職

 圷さん(食堂経営)との出会いが切っ掛けでジュンケイロポリス町の磯目喜代次(会津坂下出身)洋服店に、昭和二十年(一九五五)四月一日就職する。当日から日中はドイツ系人の会計事務所午後三時から夜中の十二時まで磯目洋服店で洋裁の見習いを始める。
 私が就職した時はイタリア系とスペイン系の職人二人が働いていた。
 職人達は朝九時半に来て午後五時に帰るパターンであった。そのため急ぎの洋服は職人に任せず、磯目さん自身が真夜中までかかって仕上げていた様子を見て、私も早く覚えてお手伝いしたいと感じる。
 洋裁で早く身につけることは指抜きを上手に使う事だと教えられたのでいつも寝る時は、中指に指抜きを付け、その状態を糸で縛りつけ、習慣に慣れるまで実行した。これも辛抱だ、職人達に一時も早く近付きたい熱意であったため裁縫は案外とスムーズに進んだ。でも甘えと自惚れの考えを捨て、心を引きしめる。
 現地の職人は一着仕上単価での請負条件に変り、本人の都合のよい時間に来て帰る。日本では考えられない日々の行動であった。私が磯目洋服店に入って1年目の四月にカルサ(ズボン)の製図と裁断を習う。一回の指導で覚える。それから二ヶ月後にパレト(背広)の製図と裁断は二回の指導で覚える。これも幾目さんの指導が上手であったからであります。
 就職してから毎日午後二時から夜中の十二時まで休みことなく粗野の支度で働いた一年六ケ月目の昭和三十二年(一九五六年)十月に磯目さんから盛長君を明日から職人としてお金を差し上げますと言われた時には驚くやらうれしいやらで、胸がいっぱいであった。
 でもまだまだ修行が足りなく未熟ですから教えて下さいとお願いすると磯目さんは現在雇っている職人よりも君は裁断も正確で上手になったから、と笑っていた。
 当日の晩食は、奥さんのツタ代さんが腕をふるって豪華な料理で祝つて下さった。本当にうれしかった旨を両親に便りで告げた。
 磯目さんの話によると、夜だけの見習いでは早くとも三年以上は経るが、君は毎晩十二時まで練習していたので家内が心配して再三お店のそっと行ってみると夢中になって裁縫の練習をしていた成果であると褒めて下さった。油断は大敵となおいっそう心を引き締めた。

 第二十八章 町内の電源は日本製

 私が住んでいたサンパウロ州パウリスター線ジュンケイロポリス町の電源は、ヤンマーディーゼル発電機五基を使われ、電灯時間は朝五時から夜十二時までの稼働であった。故障もなく現地人達には評判が良かったので、日本製品の誇りであった。私は電灯を頼りに毎晩十二時まで一日も休むことなく無我夢中で働いた。それは両親を一ヶ月間ブラジルに旅行させる計画であった。
 先人の日本人達の顔汚しをしないために、月夜の晩は午前零時から映画のビラ貼りのアルバイトをした。初めは二百枚のビラでビール一本分の代金と映画入場券一枚であった。私は一枚も無駄にせず、電柱に一枚一枚貼りつけた。それが映画館の支配人の目につき、三ヶ月後ビラ三百枚でビール十本分の代金と、五枚の入場券をいただいた。何事も素直に実行したことが報われた。
 代金はすべて貯金し、映画の券は磯目さんとドイツ系会計事務所のドウノ(支配人)にあげた。磯目さんはこの券を洋服を注文されたお客様に配ったので効果があったようで、数ヶ月後には仕事も増え、職人一人雇い入れて、磯目さんを含めて五人でも目がまわるほど忙しかった。特に磯目さんは女性のスーツ仕立ては評判がよく、百キロ以上も離れた町の有名人の奥様が注文していた。

 第二十九章 預貯金が福を招く

私が職人になってから、月二回銀行に行き貯金した。ブラジルの習慣はおもしろいもので、銀行の窓口に七-八人来ると書類の処理を始めるが、最後に来た人の書類を最初に始め、最初に来た人の書類は最後になる。一寸順番が違うのではない? などと誰一人文句は言わない。のんびりとした性格と寛大で陽気な人柄は素晴らしいと感じました。
 この銀行に磯目さんの奥さんの妹の主人近澤満里雄さんが役員として勤めていた。(満里雄さんは二世で大学を出た教養のある方であった。)私が銀行に行くことを知り、満里雄さんが私の家に遊びに来いと誘われたので自宅に行くと、お金儲けを教えるからと言われる。ブラジルは大国のため、情報は乏しいためデタラメな情報も多いが、今年は落花生が豊作で平年作の半額で買われるからと勧められて、落花生二百俵(一俵三十キロ 日本円で二百円位)買うことにする。三ヶ月後の情報では、豊作でなく、平年作とのことで購人した価格の二倍に跳ね上がった。
 次に満里雄さんから玄米三百俵(一俵三十キロ日本円四百円)購入し、四ヶ月後一俵日本円五百五十円で売る。次にコーヒー豆を二百俵購入し、一俵から日本円で百円の利益があった。私は十ケ月職人で七萬二千円ためるより率が良かった。
 ブラジルの習慣ではあまりにも几帳面で時間を気にする者は嫌われるようであった。蒸留水には魚は住めないのである。

 第三十章
    小型飛行機で土地探し

何時かは大牧場と夢を見て、昭和三十三年(一九五八年)六月(二十二才)、自分の土地を求めるため、日本では想像もつかないテコテコ(五人乗り飛行機)で二度に渡り原野を視察する。機内で地図を見せられ、この川境のここらあたりがこの物件であると説明され、土地面積からすると日本の百分の一の安価で二百五十町反求めた。
 その頃ブラジル政府では、都市リオデジャネイロから新都市ブラジリアに移る事が議会で議決されたこともあって、不動産業者は新都市の区画売りが盛んであった。日系人の業者が来て区画の説明があったので割安な二十五m×二十五m二区画を購入する。それに運が良く、新聞紙上のクイズに応募し一区画求めたので三区画となる。
 満里雄さんの父親は高知県で県会議員の要職を務めていたが、大きな希望に燃えて昭和初期にブラジルに渡り、苦難と闘い血の出る苦労を積み重ねて、大型バス十五台、小型バス五台所有し、バス会杜を経営し、漸く一息、安心した直後終戦となる。
 ブラジルはアメリカと同盟国のため、日本は敵国だ。日系人も敵国罪であるとのことで、政府は個人の財産すべて物色され丸裸になった話しを聞かされた時は身震いをした。
 終戦直後の日系人は日本国内の人達より苦労なされたようでした。困苦欠乏に堪えながら大和魂を捨てずに頑張り通したため、戦前に移住された日系人は皆さん成功している姿であった。それにしても戦争の後遺症は恐ろしいと感じた。

 第三十一章 日系人の弁論大会

私が住んでいた、パウリスター線ジュンケイ・ポリス町の青年会に昭和三十二年(一九五七年)に参加し、休日などは交流があり、とても楽しい日々であった。休日の夜はダンスパーテイーが盛んで、現地の美人女性達も参加された。長身の美人と二度踊ったが、自分の背丈のなさがコンプレツクスに感じ、三度は踊れなかったのが残念無念…。
 私の兄妹も皆小柄だ、やがての妻は体のでっかい女性にと咄嗟に思う。当時日系人の青年会では弁論大会も盛んであった。好奇心旺盛のためか私も挑戦したくなり、日本に居る秋元校長おじに原稿をお願いすると、一ヶ月後に送られて来た。自分で発表しやすいように文章を加えることと注意書があった。当町の青年会長植田(父は町内一番大きい精米所とコーヒ仲買業)さんに弁論大会に出場したいと伝えると! 会長はよろこんで磯目さんにもない上等な舶来品の背広生地を差上げるから、自分の腕で裁断仕上した背広を着て発表しなさいのこと! 私は思いもせぬプレゼントに心が燃えた。なんと大腹な会長であると感じると共に、私も青年会のため頑張ろうと思った。
 昭和三十三年(一九五八年)三月一日百五十キロ以上も離れたアタマンチーナ町の日系人会館の会場に入るとブラジル国旗と日の丸の日本国旗が中央に飾ってあった。異国にいても日本魂の象徴であると感心させられた。会長から戴いた背広を着て日本男児の代夫気分になって「少し足元がガクガク震えた」。
 題「ブラジル国にかけた夢」
 堂々と発表した時は自分の思いが叶ってホッとした。

 第三十二章 警察署長の背広焦す

 先輩からこんな助言があった。無茶苦茶に前進することも大事であるが、何事も繰り返し考えつくして物事にあたれ、確かに良い助言であった。私は良いと感じた事は即実行する主義であった。反省はよい源泉が生れると信じ、ブラジルに渡って以来、今日まで邁進してきたのであった。
 私が職人となって五ヶ月目、昭和三十二年(一九五七年)三月に町内の警察署の署長さんが背広を注文された。磯目親方さんはベテラン職人三人に仕事を依頼せずに、私に大事なお客様であるので入念に洋服を仕上げてくれと伝えられた時は、責任重大であると同時に誇りでもあった、早速仕事に掛り、裁断仮縫い。体合せも順調に進み、親方に再度確認して頂いた。
 《終後に仕上げのアイロンかけの時左袖中央にぼとりとアイロンの悪夢の炭粒が落ち小豆ほど焦げた》
 三日後に納める約束日である!
 さあ、大変です。私は全身震えが止らず職人達も心配顔であった! 磯目親方に申すと、この洋服を持って、約二百キロ離れたクリチーバ市に飛行機で行きなさい、有名なイタリヤ系人で、セルジード(つぎはぎ)の上手な方がいる。実状を話して補修しなさいと支持されたので、テコテコ(軽飛行機)に乗って、クリチーバ市に行き大きなデパート洋品店二~三軒訪ねるも知らないのこと、心細くなりながら洋服店を訪ねて二軒目の時、有名な職人を知っていると言われた時はほっとした。
 マッパ(地図)を書いて貰いイタリア系人のお店に着いた時は午後四時過ぎであった。
 セルジード仕上りは明日正午と約束されたので、ホテルに一泊するも心配で眠られなかった。約束の時間にお店に行くと、補修した箇所を見せられたが、一寸見ただけでは傷跡は判らない、きれいで精巧に出来上がっていた。約束の納入日に親方と私が署長にお詫びすると、全然気にすることはないよと、私の方が慰められた。
 私は職人として大貢任を感じていたので、一ヶ月後に署長が好む生地を用意して、署長宅に行き仮縫いと体合せをお願いすると、恐縮がっていたが納得して頂いて、洋服を差上げることが出来た。

 第三十三章
 失敗によりセルジード習得

イタリヤ系人のセルジード(つぎはぎ)は今後よい手職になると感じ、三ヶ月後の六月にイタリヤ系人のお店を訪ねて、見習の申し入れをお願いすると、この技術はお教えることは出来ないの返事で、帰りなさいのことであった!
 私だって二百キロも離れた所から、本気になって高い飛行機賃を払って来たので簡単には帰れない。何回でも頭を下げて必ず習得してから帰ることに決意…。
 翌朝九時半に再びお願いに行くも、昨日お話したように教えないの一点張りであった。諦めずに四日間通う。
 私の意志の堅いのに呆れて、四日目の朝にセルジードを教えますと返答があったので、ムイトオブリガード(心からありがとう)とテーブルに私の額をつけると、わかったよ、とにっこり笑顔も見せた。今まで数人も訪ねて来たが、教えるのは君が初めてだと、お話をしながら私の手を取って、丁寧に教えてくれた。習得料を何度も支払おうとしても受取らず、しっかり練習をして成功すること願っているよと握手して別れた。
 四日間もぶらぶらして遊んでいられる身分でないので、日中は現地人の食堂で皿洗い、朝と夜は宿泊していたホテルの清掃をしたが、このホテルで失言が起き、マンダインボーラ(直ちに出て行け)であった。
 現地の言葉の発音と日本語の発音で誤解される事も少し知っていたので、自分なりに充分注意していたが、私が下向きで清掃するため髪が下がって乱れていたので、一度注意された。
 支配人が私を鏡の所に連れて行き、姿勢を鏡で確認させられた。その直後支配人がエスペリオ(鏡)を日本語で何と言うと聞かれたので、とっさにかがみと答えると、顔色なくして叱るやら。バイインボーラ(さっさと出てゆけ)のこと、自分がみじめであったが、これもよい経験であると割り切った。
 さてカガミの発言の解釈を申すと私がウンチする、の意昧であるから支配人が叱るのも無理もなかった。
 少年期からの自分の夢は何であつたか、自問自答しながら、もっと頑張らなければならないと思い驀進する。

 第三十四章 大繁盛のセルジード(つぎはぎ)

 イタリヤ系人から習得したセルジードを毎晩徹夜でランプの下で特訓を続けた。一ヶ月後に仕上げたセルジード跡を、試しにインテリ風の現地人が洋服注文に来たので、傷跡を見せるも「よく出来ていて修理した箇所が判断がつかないとのこと」私はこの返事を聞き、一層自信がついた。
 早速一年前まで努めていた会計事務所に行き、支配人にセルジード宣伝の広告をお願いする。内容は『磯目洋服店内に新企画のセルジード始める』
 チラシ壱千枚準傭し数百枚は自分の足で一枚一枚無駄のないように配った。
 汗を流した甲斐あって、三ヶ月目から注文がありうれしかった。隣町の洋服店と隣々町にもチラシを配ったのでどんどん仕事が増えたので親方の奥さん(ツタ代さん)にも教えたところ、内職としては高収入であるとよこんでくれた。私も洋服の縫い賃より率がよく貯金が出きた。これも皆さんの暖かい援護があってのとであると感謝しております。

 第三十五章 皇太子・美智子妃殿下御成婚奉祝演芸会

 ブラジルの日系人は親日家で愛国心旺盛のため、各地区では皇太子御成婚祝賀を盛大に催されました。
 私が住んでいた町でも各団体達が成功させようと張切っていた。青年会に提案して演劇を催すことになり、題・「恋物語」と決めた。おやじ役(青年会長の植田)。娘役(私)。女中役(写真店経営の松崎)。彼氏役(クリーニング経営の西崎)。役柄の四人と世話役二人で約一ヶ月間猛練習に励むも、思っていたより気楽に進んだが、衣装を揃えるには難儀しました。
 当日四月十日は町内の会場に沢山の日系人及び現地人達が見物に来てくれたので張合もあった。私達の劇は三番目で一番盛り上っていた時間である。
 私は女性用の着物を着て、腕毛を剃り、手造りの髪形を頭につけて女装したが、声は変えることはできなかったが、格好いいぞ…おもしろいと大拍手の連続であった。華もびっくりするほど頂き大成功しました。華は青年会全員の反省会に貢献しました。
 相手を笑わせるたり、楽しませることは案外とむずかしいですね。今でもあの頃のよい思い出がなつかしく思います。三ケ月後の七月二十六日、日伯親善のため、日本から岸総理大臣がブラジル国訪問の際は、船引町出身の安瀬盛次さん(南米銀行副頭取役)がお世話役をしていた。
 この方は闊達なお方で、どんな事でも前向に行動して成功された日系人では第一の大地主で、福島県内から数十家族を呼寄しています。福島県人の誇りであった。

 第三十六章 一宿一飯

 私は町に出てから、日系人の活躍と現地の常識及び日本国内の情報を沢山知るために、二ケ月に一回発行していた日系雑誌「噴野の星」と福鳥県人会の「会報」を購読していた。そのため世の中浅く広く知ることが出来たと思う。
 この本で『一宿一飯』忘れるべからず。身にみに沁る言葉であった。私は約六年半異国のブラジルに滞在中、数十人の方にお世話になって、再び日本に行ける機会が出来たと感謝として、百分の一かもしれないが、命すり滅らしながら取得した森林二百五十町反は、日本からの出発から現在までお世話になったお礼に、仲内芳衛さんに差し上げる。
 リオデジャネイロ都市のバス停でお世話になりながら高橋さんから頂いた宝石は、会計事務所の主人ドイツ系人に差上げる。
 神戸出航時護身用として求めた、日本短刀と百円札は洋服店主の磯目喜代次さんに記念として差上げる。新都市ブラジリアの一区は、兄弟同様に面倒を見て下さった千田利夫さんに差上げる。高橋さんには洋服生地を郵送して返事があった。自分の私物は恩義の一部と思って差上げたのである。

 第三十七章 帰国の計画

 多数の方々の援護と、がむしゃらに稼いだお陰で日本往復する船賃のお金は確保した。
 昭和三十四年(一九五九年)八月、当時物価の暴騰が続き貨幣の心配もあり、私も二十三才今年中に帰国し、『最初に入移した移民地生活の実態を、海外協会及び県庁の担当者に、ぶざまな斡旋は慎むように具申しなければならないと決意する。』
 交通広公社の広告を見ると、なんと五年前バイヤー州ウナ移民地とイツベラ移民地から、命からがらに脱出する時、金銭的にお世話になりました、「村井喜代巳(原町市出身)さん」が、渡航手続事務を経営していたことを偶然に知った。あの時村井さんの援助がなければ、この世に私はいなかったでしょう。本当に命の恩人であります。早速村井さんの事務所宛に、日本に一時帰国したい意向と五年前お世話になったお礼として洋服生地を贈る。
 帰国する前に仲内姓から旧志賀姓に変更しないとやがて面倒になると思い、その手続方法もお願いすると、日本からの戸籍謄本二通あると手続ができるとのこと、急いで父に謄本の件と一時帰国する計画であることを知らせると、大分驚いた様子であった。
 洋服店の職人になって二年九ケ月目。そんなにお金が溜まる訳がない。もしかしたら父に送金してくれと依頼があるのではと…びくびく心配したらしい。男一匹若輩と言えども父親に頼って帰国などせぬぜ! 
 ブラジル貨幣は毎年値打が下り、下落頻度が酷かった。

 私がブラジルに渡った昭和二十八年と昭和三十四年を比較すると、なんと五倍以上の値打落ちである。このままでは働けど働けど帰国が出来なくなると感じた。
 村井さんから大西洋廻りは六十二日間の日数が掛り、太平洋廻りは四十五日間で十七日間短く、渡航費も安いと説明されたが、大西洋廻りで帰国すると、私は世界一周(地球一周)することになるので、オランダ船ルイス号(壱萬五千t)に決めた。

 第三十八章 駅出発

 自分の腕で新調した背広に着替えしていると、数人の方々が駅まで、見送するとのことで来て下さった。
 この地に再び来れるあてもないと思うと、無情に寂しく感じながら皆さん一人一人と握手をして急行(木炭車)に乗車、昭和三十四年(一九五九年)十一月十九日(木)午後三時ジュンケイロポリス駅を立ち約十八時。後、翌朝八時半にサンパウロ駅に着く。
 タクシーの運転手に案内されて、村井、本田経営の渡航事務所に行き、本格的に渡航手続きを済せ旅費代(日本円約六拾萬円)を支払う、同じ事務所の本田授さんが親切に案内してくださって、二日間市内見物をいたしました。
 それにしても不思議と偶然に、六年前日本を出航する時、同じブラジル丸でバイヤー州ウナ地区に入移した、原町出身の西内(旧姓廣瀬)ケサ(母)、信子(娘)にお逢いしたのである。
 母は目頭を赤くしながらも日本には未練はないと強気であったが、娘は同級生や友達に逢いたいと泣きつき、できれば一緒に日本に帰りたいと竦(すく)んでいた姿は可哀想であった!
 でも親子二人で立派な手職を身につけていたのにびつくりした。それは私が身につけて成功した職と同じセルジード(つぎはぎ)職であった!
 西内親子と本田授さんが、お別れの食事会を催して下さった。必ずや親子二人が大成功する様念願して別れた、宿泊していたホテル・クリスタルからサントス港近くのホテル三笠に一泊して、昭和三十四年(一九五九年)十一月二十八日午後三時半オランダ客船ルイス(LUIS)号に乗船してサントス港より日本へと出航する。

 あとがき

 日本を出国して、かれこれブラジル滞在は六年五ケ月の歳月が過ぎました。毎日メモ程度の記録をつけていた事を思いだし、約四十年振りに保存しておいた日記を見ては記憶をたどり、懸命に想い出し、自分だからこそ語れるささやかな人生の足跡を形にして残したい思いで、率直に在りのまま執筆いたしました。
 時には極限の人生観を体験できたのも頑丈に授けて下さった両親と、大勢の方と出合った人達の助けがあってのことであると深く感謝しております。
 ブラジル人は人懐っこく、国土は広大な面積で、資源、物量も豊冨、それに人種差別の欠片もない、今後限りなく発展するお国でありますよう熱望すると共に、第二の郷里「ブラジル国」は永久に忘れ形見にしたい。

 平成十一年三月二十二日~九月十五日
         著者 小林 盛長

《著者略歴》小林盛長

昭和11年3月 福島県原町市小浜生まれ
昭和27年3月 大みか中学校卒業
昭和28年6月 ブラジル国に渡る
昭和31年5月~11月
     ジュンケイロポリス夜間学校
昭和35年1月 ブラジル国から帰国
昭和38年2月 日立製作所国分工場退職
昭和39年3月 仙台赤門学志院卒業
平成3年7月 マツダオート福島定年退職
平成9年9月 東京海上火災保険退職

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