高野光雄氏は、同郷の福島県南相馬市原町区の近所に生まれ育った人物で、若くして兄弟達とブラジルに移民し30年の年月を農業の夢に賭けた。1990年の日系人ビザの緩和によって、日本の経済界の生産人口の人手不足を救うべくブラジルなど南米から大量の逆移民で日系人28万余が押し寄せたが、ポルトガル語と異文化の壁に阻まれて、実は経営者側と労働移民の側に意思の疎通が細かった。
 高野夫妻はこの課題点に注目して、異文化の中で日本人として生活して来た長年の経験を活かして、通訳や日本語とポルトガル語を教授する日伯学園という外国人学校をリトルブラジルと呼ばれる群馬県大泉町に開設していた。
 高野祥子夫人は2009年に、こうした国際貢献が認められて外務省などが関与する「地球市民賞」を受賞した。
 南相馬で地元新聞やタウン誌を発行してブラジルに移民した恒例の一世同朋に配布する私の活動に、長く支援してくれた高野夫妻は、かつての東京オリンピックで金メダルを獲得した三宅義信氏が主宰する「メダリストを育てる会」にも参加していた。
 この会を通じて3.11東日本震災の勃発した直後から、外国人家庭への支援物資のストックから、故郷の福島県浜通り地方の津浪被災者が「着る物もなく寒さに震えて救援を待っている」状況を知り、ただちに2トントラックに3000人分の運動用ジャージ服を積んで相馬の緊急避難所に急行させた。
 その後の心労で倒れた光男氏が、群馬では有数のリハビリ病院に入院したと聞いて、激励のために訪問したのである。
 曲がりくねった山道を、2011年の3月に原発事故の直後に南相馬のバスが辿った草津への道をなぞるように追体験するのが私の目的だった。
 高野氏は脳血栓で半身不随の体で懸命に闘病していたが、理想的だと思って居たリハビリ施設はともかく、実は夜間に幽霊の出る噂のいわくがあること等を知った。
 旧友と顔を見合わせて3.11以来の気苦労を語り合いながら、地球の裏側のブラジルを一緒に走破して同朋を歴訪した激励ツアーや、南相馬での日伯交流子供サッカー大会のことなど友情の歴史を振り返った。
 3.11の直前まで私は高野夫妻の半生を追ったドキュメンタリー記録にするべくフォローしていたのである。
 

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