荒至重(あら・むねしげ)、通称専八は、和算・測量にかけては日本の最高水準に達し、尊徳のもとで実地の修練を積み、帰国の後は、民政と土木工事と著述・教育に活躍した。その卓抜な設計と施行による大規模用水事業は、今日までも恩恵を残すものが多く、彼を祀る神社もある。
 彼を彼たらしめた究極のものは、実にその母にあった。
 母の繁(しげ)は、文政4年(1822)、18歳で、藩の祐筆荒喜左衛門量重(かずしげ)に嫁いだ。喜左衛門は、料理方から身を起こして徒士(かち)となり、日夜筆道に励んで祐筆に抜擢された人で、謹直・公正な人物だったという。しかし、禄高は低く、荒家の生活は楽ではなかった。繁は、機織りをして家計を補いながら、夫と62歳になる姑(しゅうとめ)に仕え、また夫の書道の弟子たちの面倒をみた。
 文化9年(1826)に至重が生まれた。至重が5つ、妹が2つになった天保元年(1820)、喜左衛門は回米奉行を命ぜられ、城下から南へ7里、塚原村の浜蔵に移った。その翌年繁が10年間かしずいてきた姑が死んだ。中風で、あと3年間は寝たきりだったが、繁は終始、実の母と変らない愛情で看護し、孝養を尽した。
 繁はさらに夫の姉がつれあいを亡くし、数年前から痛風を病んでいたのを引き取って自分が面倒をみようと言い出した。喜左衛門は当初ためらったが、繁はぜひともと引き取り、看護の手を尽くした。さらに繁は夫にこう申し出た。
「私の母が、66歳になって、よそにいます。引き取りたいのですが、すぐにではありません。私はこれまでどおり機を織って、家計に入れますが、それ以上に夜中に働き、縮を50反、織りためて予備金とします。それができたら、母を当家に引き取らせてください。」
「これまで、母や姉ばかりに尽くして、心苦しく思っていた。里の母を迎えるのは、わしも望むところだ。縮を50反など要らないからすぐに呼びなさい。」
 繁は喜んで母を招いて、家事に、介護に、帯も解かずに励んだ。
 これらのことが評判になって、繁は藩主から感状を授かった。
 天保5年(1834)正月、夫の荒喜左衛門が急逝した。享年わずかに42歳。繁は31歳。至重が9歳、妹が7歳で、去年生まれた下の妹はまだ乳離れしていなかった。
繁が至重の名義で藩から来る扶助料は1人扶持で、繁は、朝から晩まで機織りに励み、夜は赤子を背にくくりつけて荒地を開墾した。他からの援助は一切受けなかった。
 至重はそんな母の姿を見て育った。15歳のとき、藩命で和算家佐藤儀右衛門に師事し、1年ほどですべてを学びとった。17歳で勘定方の常雇いとなった。繁は毎夜、蓑笠に大小を帯び、男姿で出迎えたという。
 弘化元年(1844)、至重は19歳で勘定方の本勤となり、江戸遊学を命ぜられた。やがて関流の大家内田弥太郎に師事すること3年、数学・測量・天文の奥義を究めた。その後は仕法掛として尊徳の随身を命ぜられ、野州東郷にいたが、3年たった嘉永6年(1853)7月、母大病の知らせで急きょ国に帰った。息子のつききりの看病で母の容体は持ち直し、何年か齢を保った。母の労苦と献身の生涯は報いられたといえよう。

 至重は仕法掛の一員として尊徳随身を命ぜられ、仕法の実務に従い、土地や家屋の測量調査、工事の監督補佐が主な任務になった。尊徳は彼を『そろばん』の愛称で呼んで、複雑な計算をまかせた。西川村の水害対策や今市用水(二宮堀)の堀さくに腕をふるった。荒至重は、前後通算4年に近い随身修業の間に、仕法心得から財務・技術にわたる一切の実務を修得したが、中でもトンネルなどの高度の水路工事の体験は、後年の活躍に生きる。
 相馬に帰国早々、北郷最大の用水池である唐神堤(とうじんづつみ)の修復・かさ上げに手腕を発揮した。安政4年(1857)6月、北郷の代官を拝命し、以後11年にわたってその職にあった。彼は管内一円の慢性的な水不足に着目し、文久3年の大干ばつで、民衆の苦しみを救うため、被災各村を巡回・測量し、用水路・用水池の新設・改良や、新水源の付加・注入を企画・設計した。簡易なものはすぐ施行し、大規模なものは藩の財政措置を得て、次々に実施した。北郷30か村は、在任中最も水の不安のない地域となった。彼を祀る南右田神社が創建されている。
 荒至重は、さらに飯崎用水の測量・設計を命ぜられた。南方小高郷の飯崎原に、北標葉郷の室原川(請戸川)上流から水を引き、5か村を縫う、延長12.6キロ、うち2.2キロは岩盤をくり抜く大事業で難工事だったが、3年足らずで完工した。慶応2年には、北標葉郷の小丸(おまる)用水も2年足らずの工期で完成した。
 荒至重は、早くから簡易測量器を考案し、また『量地三略』というテキストを作り、多くの藩士や役人を技術者として養成した。明治維新の動乱の中、中郷代官に転じ、郡代となり、廃藩置県の後も県官や郡長として地方行政に携わり、明治15年に退官した。明治42年、84歳で天寿を終えたが、終生清節を貫き、鉄道のパスも、領民の大根も、門弟の手拭も、一切受けなかった。(「尊徳の裾野」佐々井典比古著「荒至重の母」、「荒至重の功業」より)

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