神に祀られた代官 立体交差の用水路作る
相馬藩においても、それは同様であり、今日なお全く心は薄れていない。
荒至重は、帰藩すると北郷代官を仰せつけられ、ご仕法実施に専念した。安政4年のことである。
当時の測量の方法は極めてユニークである。山の稜線の測量は夜間百姓衆に松明を持たせて登らせ、光の線をつないで測った。測量器械はすべて目測によって使用する。目印に釘を打ってある程度。
これだけの道具で、荒至重は北郷右田へ水を引くため地下隧道を掘っているが、これが二地点から同時に掘り進めてゆき中央でつながる。用水路地下隧道は地中で立体交差しているというすばらしいもの。
こうした神業的な土木技術のため、北郷の耕地はどんな旱魃にも渇水しない。彼の疎水治水の恩恵を称えて、郷民は碑を建てた。死後至重は南右田神社に神として祀られた。
明治元年、郡代となった。明治3年、中村藩小参事。同4年、磐前県庁に出仕。同5年、大属となって地租改正の事業にあたる。同12年楢葉標葉郡長。明治26年から31年まで平町長をつとめた。
著作としては「量地三略」「測量即計」等を著したが、みな師の内田観斎が序文を寄せて推奨し、好評を博し広く流布したという。
妙見神社に奉納した算額の題が一部知られているが、高等数学の高度なもので、現在の数学者も感嘆を惜しまない。
氏家さんの義弟にあたる故佐伯福島工専教諭が研究紀要に、荒至重の算額の題を現代数学に翻訳して解いているが立派な幾何学である。
算額には微分、積分、物理の重心、比例、点の軌跡、無限級数についての悉くがしるしてある。
平町長として出仕する際、屋敷のあった小高町下浦のどこか近くの土蔵のある家に荒至重の手になる本物の算額をかれ自身が預けて行ったそうであるが、まだ発見されていない。
荒至重は、法謚覚了院忠厚修得居士として、中村田中歓喜寺に葬られている。
相双新報 昭和51年 連載「郷土の先行者4」その3
写真 南右田神社。鹿島町から右田浜への道を約4キロ。右田浜キャンプ場へ行く途中、こんもりした林を背に、かくれるようにして道沿いにある。