郷土の先行者たち 第5回 山田貞策 出崎栄太郎  太平洋と闘った八沢浦干拓 

◇名所だった藩政時代の八沢浦八景
 八沢浦はJR常磐線鹿島駅から東へ一里4キロばかりの所。昔じゃ八沢村、日立木村、磯部村の3村5大字にまたがる約350町歩の広大な浦だった。
 南北1キロ、東は洋々たる太平洋に面して白砂青松の松林と砂浜が続き、波濤が運ぶ砂によって川口が閉じられ、西端には横手から発する矢ノ口川が注いでいた。
 相馬藩時代には塩田経営が行われ、日照りの時には「てっかり千表」といって、一日二千俵もの塩が採れた。
 八沢浦の北岸は断崖絶壁で岩の上に緑の松が生え、屏風岩とか額岩とか亀岩や大明神岩など、八沢浦八景と名付けられてメイショであった。
 鷹ノ巣岩というところは、この崖から八沢の長者が突き落とされて相馬氏に滅ぼされたという伝説がある。

◇大食漢の仇名「八沢浦」
 八沢村の人々は、大食漢のことを「あいつは八沢浦だ」とあだ名をつけて呼ぶ。小川が流れ込んで、海へのはけ口がない、呑み込むばかりで吐き出すことを知らない、との洒落である。
 この浦を開拓して開田しようと試みた人はたくさんあったが、すべて失敗に終わった。
 数奇なめぐりあわせによって岐阜の豪農山田貞策と大阪の人出崎栄太郎が八沢浦の干拓に乗りだした時にも、村人たちは「またあの沼に銭を捨てに来た」と言ってみな笑い飛ばした。
 事実困難な干拓事業はそうやすやすとは完成しなかったのである。

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