郷土の先行者たち 第四回 相馬藩が生んだ和算家 荒至重
 文政9年~明治42年。
 荒至重は、相馬藩が生んだ数学者(和算家)である。その主な事業は北郷(鹿島町)の開田であるが、鹿島の地では荒専八として知られる。
 今年は(昭和51年)二宮尊徳の誕生二百年にあたるという。旧相馬藩にとって「二宮仕法」という言葉は、歴史的な生活改善運動として言葉以上の重みを持っているが、このたびの二宮尊徳誕生に百年にあたって、その二宮仕法の具体的な推進者の一人であった荒至重を掘り起こし、その偉業に光を当て、顕彰しようという人物がいる。相馬市砂子田に住む氏家義之さんがその人。
 氏家さんは長く数学の教員をしており、そうしたことからも江戸時代の郷土の和算家、荒至重の算額と土木事業等に興味をもち、この秋には荒至重の算額の復元、著書の再版、和算と二宮仕法に関する講演会などの行事を挙行したい考えだ。
 そのため氏家さんは、荒至重顕彰会設置のための準備会を作って研究にあたっている。
 荒至重は文政9年9月23日生まれ、明治42年5月7日没。84歳の生涯であった。
 父は荒喜左衛門(量重)、母は目黒氏、民右衛門光量の長女、民といったが、文政4年荒家に嫁して繁と改名、16歳の時であった。
 父量重は相馬藩料理方から身を起こし、請戸村浜御廻米奉行までになった人であるが、春秋に富む42歳で亡没してしまった。幼くして父を失った至重は貧しい境遇のなかで母の手一つで育て上げられた。至重二歳の時に疱瘡(天然痘)に罹ったが、母繁の気丈な看護によって助けられ、授乳されつつも、その状況を記憶し、後年に至ってすべてその実況を語り余すところがなかったというから、ものすごい記憶力に母は子の非凡に驚嘆して、将来を嘱望したという。
 天保11年、元服。藩命によって藩の和算家佐藤儀右衛門に就いて一般和算を学んだ。
 (学生にとって)数学が苦手というのは、いつの時代でも同じものらしい。当時、多くの家から入門してきた子弟は、途中でついてゆけずに大分学を諦めている。こうした中で至重だけは黙々と数学の勉学にいそしみ、ついに嘉永3年、一般和算の奥義に達し、師の勧めと藩命によって江戸へ遊学した。時に21歳であった。
 江戸で師とする和算家を訪ね歩いたがいずれももの足らず、結局当時の数学と天文学と蘭学の第一人者であった内田観斎弥太郎にめぐりあうことになる。
 観斎の塾に入門して専心学を修めて3年、荒至重は師の折り紙付きになった。
 
相双新報 昭和51年 連載「郷土の先行者4」その2

次回→「そろばんの異名で二宮尊徳の片腕に」につづく

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