追悼と復興祈る光のモニュメント

 孫が八歳になった。
 関東大震災で首都百万の命を救った最初の情報は横浜港の客船これや丸の無線機のSOSだった。
 これをキャッチした当時の最新鋭の磐城無電局富岡受診所の無線士で、国際無線のコイルを国内中波に工夫して巻き直した結果だ。
 米村嘉一郎局長が即日原町無線塔からアメリカに知らせた。
 発明されたばかりのラジオで全米から「日本を救え」と義援金と薬と衣類などと善意が続々と翌日から東京湾に届けられた。そう原町無線塔物語に書いた。
 これを記念して、3・11の犠牲者の慰霊と復興を祈って光のイベント実行委員会のサーチライト・イベントが鹿島・、飯館・原町・小高に加えて今年は浪江でも開催される。
 原町送信所と富岡受信所の中間に福島第一原発があるのだ。
 八年たった。3・11には子供たちと未来について語り合う日にしたい。

2019.3.11

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