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話が違う
入居先は県が借り上げて原発から避難した住民を受け入れる、民間借り上げのみなし仮設住宅だった。90歳のばあさんが大家で、病院からアパートを買い上げて経営していた。やり手のおばあさんで、今も現役で仕事をし、食事を作って利用者に食べさせていた。1階ではおばあさんが社長を務める会社がデイサービスを経営していて、日中そこを利用する決まりになっていた。入居料は無料だったが、そこを利用しないと食べさせてもらえなかった。
事前の説明では「土日は食事が出ないので自炊してください」とのこと。自炊が楽しみで、これで好きなものが食べられると喜んで入ったのに、実際には「ガス、水道は使わないでください」と制限された。朝8時から夕方4時まではデイサービスに強制的に行かされた。他の利用者も「入る前と話が違う」と漏らしていた。デイサービスは認知症の高齢者ばかりで、「9∔3は?」「5∔5は?」というレベル。「なんぼなんでもこれはないだろ」。苦痛で苦痛でしかたなかった。話が違うと訴えたが、通らなかった、夕食後の話ではみんな不満を漏らしていた。それを職員に立ち聞きされた。
みなし仮設に入っている間に、福島市の養護盲老人ホームからエリートと目される相談員がわざわざいわきまで足を運び、「小山田さん、のどってくれ」とコンガンサレタ。片道2時間かかるところ、1カ月のうちに2~3回も訪ねて来た。「無理やり連れて帰るなら、車から飛び降ります!」と断った。
デイサービスの職員とは、「面接の時の話と違う」と何度も考証した。「税金で生活しているのだから文句言うな」と言われた。一部は自己負担を支払っているし、残りは介護保険制度から出ているはずだと言い返した。売り言葉に買い言葉から、とうとう「お金は要らないから帰れ!」と担当職員に言われた。「よーし! 売られたけんかは買ってやる!」と次の朝知人に頼んで出ていくことになった。
出ていく時お金だけは払うことにし、「かかった分を計算してください」と頼んだ。「担当職員が不在だから待って」と言われたが、最後まで現れなかった。迎えが来て、お金を払えないまま去った。裏の法で声はしていたので職員はいたと思うが、仮にも客に向かって「出ていけ」と言ってしまい、合わせる顔がなかったのだと思う。

この薄い血は何ですか?
小高区の自宅に一度戻った。2~3日片づけをしたが、水道が壊れたままで住めなかったので、知人に頼んで秋保温泉に連れて行ってもらった。とにかく安い宿を探して1泊6000円というところを選んだ。疲れが一度に出て3日間寝込んでしまった。宿の人が毎食運んでくれたが、一切食事に手をつけられなかった。温泉にも10日ほど浸かることができず、宿の人に心配された。
血圧の薬をもらいに医者にかかったら笑われた。「ハハハ…この飽食の時代に、この薄い血は何ですか!?」と高笑いされた。養護盲老人ホームでも、さらにデイサービスでもやせてしまった(現在の仮設に入ってから体重は元に戻った)。歯医者にかかり入れ歯を直してもらったが、お盆休みにも掛かり40数日も滞在することになった。

目の見えぬ者は置けない
老人保養ホームなかやま山荘(宮城県社協経営・2013年2月で閉館)に行った。十数年来利用してきて、何十人も仲間を連れて行ったなじみの施設だったが、経営者が替わって方針が変わっていた。「目の見えない人を一人置くことはできない」「付添がないとダメ」と言われ、2泊して出てきた。
次に秋田県新庄市にほど近い鳴子温泉に行った。1軒目は姥の湯。ここは段差が激しく迷路みたいになっていて、使いにくいので4~5日で出てきた。2軒目に農民の家を訪ねた。目に見えない者は置かないと言われ、1泊だけして出た。
息子に電話したら、「老人で1人で泊まり歩いて何ごとだ!」と怒られた。こっちは好き好んで温泉旅行をしているのではない。少しでもお金のかからない過ごし方を考えて、6000円の宿を選んで訪ねただけなのに。
この間の避難を手伝ってくれた知人にはお金を支払った。「受け取らない」と言われたが、それなりの金額を惜しげもなく支払った。「お金はこういうときに払わなくてどうする」と思った。

橋の下に住むわけに…・
仕方なく、住んではいけない小高区の自宅に戻ることにした。電気は戻っていたが、水道がダメだった。飲料水は知人が届けてくれた。食料品は買ってきた。でも知人から「月曜日からは水をもってこられない」と言われた。家の中は地震の時のまま、ガラスや物が散乱していた。人形のケースが壊れて、板の間にガラスが飛び散ったまま、足の踏み場もなかった。住めるように片付けた。一番大変だったのは冷蔵庫だった。1年半も放置してあったので、食べ物が腐って「臭いの、臭くないのって大変!」な状態だった。一人でかき出して、庭に埋めて始末した。冷蔵庫は拭いても匂いは取れなかった。小高区には家に戻れず、まだ手つかずという家が多い。
自分が自宅に戻ったことは、以前担当していたケアマネージャーに伝わった。「小山田さんが制限区域に自宅に住んでいる!」と、市役所の職員が慌てて飛んできた。「命助かった!」と思った。
市役所では「80歳のばっぱが1人で住んでいる」と大事件になったと言われた。「橋の下に住むわけにいかないし」と言い返した。市職員が訪ねてきたのは金曜日だった。「急いで探します」と約束したが、土日月の3連休を挟むことになり、「待ってください」と言われた。連休明けの火曜日に迎えが来て、現在の住宅に入ることができた。

(インタビューは続きますが、紙面の関係上ここで終わりです。また途中省略した部分もあります。AJUさんには承諾をいただいております。)
AJU福祉情報誌123号より抜粋

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