被災地からの報告
東京電力福島第一原発事故の直後、緑内障で全盲の小山田トヨさん(80)は福島県南相馬市小高区の自宅に5日間取り残されました。原発から20km圏内の自宅でひとり暮らしでした。
救助された後も、9回もの避難と壮絶な「被難」生活を余儀なくされました。トヨさんの話からは、自力での避難が困難な災害時援護者の課題とともに、障害者(高齢者)福祉をめぐる根本的な問題が見えてきます。
死を覚悟した5日間
「私は目が見えないからねー。見えてりゃ裸足でも逃げるんだけど」
3月11日の震災直後、自宅の前に住む知人から「津浪が来るから逃げて」と声がかかった。その知人は「原町の親戚が心配だから見にいく」と言って出かけてしまった。自宅1階の茶の間のこたつで布団をかぶり、寒さと余震に震えた。翌日、原発が爆発。警察が「逃げてくれ」と呼びかけていた。警察は通りの裏までは入ってこられなかった。周囲の人たちのほとんどが車で逃げ、助けに戻ろうとした知人の車は警察官に制止されていたことを後で知った。
自宅は晴眼者の時から暮らしているので、針1本がどこに置いてあるかまで分かるが、新しいところは地図を描きようがない。自宅は小高駅のすぐ近く。津波は幸い線路の土手で止まった。しかし家の近くまで津波が来たため、水が引いた後も膝ぐらいの高さのヘドロが自宅周囲を取り囲んだ。
広報車が来て「逃げて下さい」との呼びかけはあったが、外に出られなかった。「助けて~、助けて~」と叫んだが届かなかった。電気も電話も水道も止まった。水がないのが困った。水は断水になる直前に、ヤカンに確保した。あとで知人から「さすがおばあちゃんだな」と言われた。この水で5日間生き延びた。
最初は即席ラーメンを食べようと灯油ストーブで作った。こんなに水を使うのはまずいと気づいた。ラーメンは1回きりにした。電気も水もないからご飯は炊けなかった。トイレはお風呂の残り湯で流した。地震の前に半分は洗濯に使っていたので、半分残っていた。地震でドロドロになったところを拭いたり掃いたりした。
街中がもぬけの殻となり、一人きりで取り残された。地震後は電車や車はおろか、猫1匹通らなかった。
やっと通じた!
電話は通じなかったが、3月15日の夕方にビビビ…と、壊れたような音で鳴った。埼玉の親戚からの電話だった。先方は毎日100回以上かけていたらしく、「やっと通じた! 生きていてよかった!」と言われた。ヤカンの水でしのいでいたことを伝えた。親戚は南相馬市役所に電話して「水を届けてくれ」と言ってくれたが、「できない」と断られた。
電話が通じるようになったので、自分から110番をかけた。福島警察の女性が出たので事情を説明し、救助を求めた。雪しぐれの日だった。警察が着くと「男物だがこの長靴を履きな。履かないと出られないよ」と言われた。大柄な警官に抱きかかえられるように泥とがれきの中を脱出した。