南相馬 10日間の救命医療.
作成: 二上 英朗 日時: 2011年12月29日 10:03 ·
おもいもかけぬ3・11の大震災で明け暮れました。
南相馬市総合病院の医師太田圭祐氏の著作は、退職にあたって病院に遺された氏の日記をもとに再現された最初の10日間の緊迫した状況下の医療現場のレポート。
テレビでみる津波の映像や、ニュースで知る医療現場のインタビューではわからない、当事者の内部からの視点で、生々しい迫力がある。不眠不休の医療従事者の活動のすさまじさに息を吞む。時事通信社・刊。1500円。
太田氏は、名古屋出身の若い31歳の医師。医療過疎地の相馬双葉地方の拠点南相馬に乞われて勤務し、今春退職間際に3・11に出遭う。病院から2キロという最近距離にあったヨッシーランドという老人介護施設は、海から2キロ地点にあって、地震で倒壊し、津波に飲み込まれ多数の死傷者を出したというニュースがテレビ報道されるや、ただちに緊急救命の態勢が敷かれ、その他の救急搬入をすべて受入れることを決定。しかし、続く原発事故の発生で、病院自体も退避をえまられる状況に。
12日の原子炉建屋爆発で双葉地方からの避難者がなだれを打ってかけこんできた。14日の二度目の爆発で、20キロ圏内の全員退避命令が出るが、23キロ地点にある南相馬総合病院は、病院スタッフの自主判断による退避か、残留かを迫られる。
200人の収容患者を安全に移転させるまで、薬品は残り少なく、しかし放射能を恐れた物流がストップ。CTもMRIも故障して使えず、エレベーターも故障した状況で、どうやって生き延びるか。極限の最前線で、野戦病院の状態だった。
18日、大熊町の双葉病院から医療スタッフが避難して患者を取り残したと、大新聞が一斉に批判記事を載せた。警察が捜査に入った、という報道を聞いて
「退避は罪なのか」と、苦悩しつつも、残って医療活動を続けることを決意。
3月15日、3度目の2号機の爆発で「早くその場を逃げろ」というメールが友人たちから殺到するが、父親へ「しばらくここに残る。もうすこしがんばってみる。何かあったら妻をお願いします」とメールした。妻は名古屋で出産をひかえていた。
かえってきたメールには「誇りに思う。何も心配するな」とあった。
短い文章だったが、思わず涙が出た、と著者はしるす。
倫理観と使命感と恐怖のはざまに引き裂かれながら命を覚悟し、殉職も覚悟したときの、最大の試練を、読者にも伝える好著。

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