行政の対応を待っていたら、人が死ぬ
 町職員から「ニイパッパ(国道288号線)で西に行ってくれ。都路町で誘導の人がいて受け入れ体制ができているはずだから」と指示を受けた。
 田村市都路町に着いた。すでに集会所や体育館は先に避難していた大熊町の住民でいっぱいになっており。100人以上の高齢者を一挙に受け入れることができる余裕はないという。都路町の職員はもっと西に行くようバスの運転手に声をかけた。具体的な行き先の指示はなかったため、避難できそうな学校を点々とした末に行きついたのは、大熊町から約30キロメートル先の田村市船引町、船引小学校の体育館だった。時計の針はすでに正午を回っていた。やっと身を落ち着かせる場所を見つけることができ、一息ついたものの、ここも2日後には新学期の準備をするため、移動してほしいと学校側にいわれた。

 行政の対応を待っていたら、人が死ぬ
 震災から3日が経つころには、県内の避難所はどこも被災者でごった返していた。今更、新たに150人を受け入れることができる避難所は皆無だった。
 頭をかかえた池田は、田村市役所へ相談に訪れると、市職員は自動車部品メーカーのデンソー東日本の工場だったら150人はは入れるという。
 高齢者を工場に?
 不安に思った池田は、職員と共に下見にでかけた。田村市のデンソー工場は、完成されたばかりでまだ使われていない。大きな工場の中に入ると、広いコンクリートの床には何もなくがらんとしていた。奥には20坪程の社員用食堂の部屋があった。さすがに体力のない高齢者をコンクリートの上で生活させることはできないため、この奥の部屋を貸してもらうことにした。
 
 避難弱者 p140

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