立てこもる覚悟

 広野町の高野病院は、原発から22キロにある。20~30キロ圏にあるほかの病院は避難うぃ選んだ。高野病院はなぜ避難しなかったのか。
 事務長の高野己保は「最初は、原発のことはまったく頭にありませんでした」という。
 2011年3月11日午後2時46分、鉄筋コンクリート2階建ての病院が大きく揺れた。医薬品の大きな棚が倒れた。病院裏手にあるボイラーの緊急停止を知らせる警報音がけたたましく鳴っている。
 入院患者は震災発生時、内科病棟に63人、精神科病棟に44人。
 1階ナースステーションの隣にある100号室では、胸の大静脈からカテーテルで栄養補給する重傷患者4人がいた。統括看護師の松本とし子(63)はカテーテルが抜けるのを防ぐため、スタンドにぶら下がっていた輸液バッグを外して次々とベッドの上に投げていった。
 うろたえる看護師らに、「早く病室に入って!」と指示した。
 院長の高野英男は、医局でカルテを書いていたが、イスが揺れでどんどん机から離れていく。
 しかし、このときはまだ「大きな地震」という認識しかなかった。
 事務部の菅野明(52)は、ボイラーの警報音を停めるために走った。ロビーに戻ると、テレビで大津波警報が流れている。「3メートル? それなら病院は大丈夫だろう」。海抜25メートルにある安心感があった。
 そこに、つなみがやって来た。
 病院は太平洋を望む丘の上にある。海面がせり上がって押し寄せてくる____。10 メートルはゆうにあった。
 菅野は第一波の後、道路の状態を見に坂を下りた。
 川沿いの道路は陥没し、海側の道路は倒木でふさがれていた。このままでは孤立してしまう。
 チェーンソーを持ち出して倒木を切っていると第二波が来た。家の屋根が流れてきて、またふさがれてしまった。
 院内では自家発電が作動し、最低限の医療は確保できた。しかし停電でテレビや固定電話は使えず、携帯電話はつながらない。情報がない。
 己保は「当分、立てこもることになる」と覚悟する。厨房の職員に「おにぎりをつくって」と頼んだ。
 子どもがいる職員には「歩いて帰るなら今しかないよ」と声をかけた。家族の安全を確認できたら戻って来てくれるだろう。
 この段階でも、認識はまだ「地震と津波だけ」だった。

 プロメテウスの罠 3  2013年2月12日 朝日新聞特別報道部

 この節の前後に、地震発生の状況が克明に描写されている。高野病院が、なぜ唯一逃げずに医療の現場であり続けたか?

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