私たちに死ねというんですか? 吉野和江施設長
「避難弱者」より 東洋経済 2013年8月29日発行
「携帯電話はauだけつながった。その携帯電話を残った職員が代わる代わる利用して家族に電話しては、泣いていました」浪江町・オンフール双葉(特老)職員
あの日、福島原発間近の老人ホームで何が起きたのか❔ 相川祐里奈 国会に設置された東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)に事務局調査員として参加。解散後はフリージャーナリストとして活動している。
第2章 「おらがこんな状態だから、みんなおらのことをおいて逃げんだベ」 松永祐子
という章題に、取り残された利用者たちの心情をいみじくも汲み取っている。「避難弱者」は、特老という施設の、取り残された浜通りの最弱者たちと彼らを守って家族と離れて働いた職員たちの真実の姿を描いた。第2章は浪江町のオンフール双葉を中心に描写されているので、浪江町に取り残された250人の最初の四日間を追ってみよう。
オンフール双葉は特別養護老人ホームに貴布祢の利用者と職員、西病院の患者と医師看護師・双葉町の双葉厚生病院の入院患者・町の住民が続々と避難してきた。(P90)
「避難区域に最後まで取り残された高齢者 オンフール双葉 電気もつかない老人ホームが町の避難所に」(章題)
3月12日午前10時半ごろ、浪江町の避難所に指定された福島原発から半径10キロメートルの特別養護老人ホーム「オンフール双葉」に、町内の老健施設、貴布祢の利用者と職員、西病院の患者と医師看護師・双葉町の双葉厚生病院の入院患者・町の住民が続々と避難してきた。浪江町の職員も駆けつけ、避難状況の確認のため待機している。オンフール双葉は利用者約140人を含め、あっという間に400人以上の人でごったがえしになった。
オンフール双葉に残った職員は42人。その中には、津波で家が流された者、家族の安否がわからない者も少なくなかった。施設長、吉野和江(当時55歳)もその一人だった。同町請戸地区にある自宅は津波で流され、両親の行方がわからない。オンフール双葉で指揮を執る吉野のかわりに、夫が必至で行方を探していた。
原爆の地獄絵 介護職員。松永祐子
オンフール双葉は、1階、2階、東棟の3つのグループに分かれ、それぞれの場所にいる利用者のケアを行った。介護職員、松永祐子(62歳)は2階のユニットを任され、主任として職員をまとめていた。
松永は、吉野とほぼ同じ年にオンフール双葉で働き始めた。兄夫婦が住む大熊町の実家は流されてしまったが、家族は津波が来る前に車で逃げたと知らせを受けたこともあり、落ち着いて仕事に専念できた。施設長の吉野とはまるで同期のように何でも相談できる関係にあり、仕事でどちらかが辛いことがあると、「辞める時は一緒だよ」といつも励まし合っていた。松永が、吉野の両親が行方不明だと知った(中略)原発で水素爆発が起きたと知ったのは、日が暮れてからだった。
長い一日 (p81)
助けを求めに町に出た吉野は、道中で自衛隊や警察に遭遇し、避難手段の手配と救援物資の提供を依頼して施設に帰った。浪江町役場の移転先である津島支所に向かわせた職員も戻っていた。どうだったか聞くと、役場は電気も通らない状況で、体育館は人でごった返しており、バスが来ないことを伝えても「バスは来るはずです」というだけでまともに対してもらえなかったという。待つしかできないことはないのかと吉野は途方にくれた。
食料も底をついていた。夕方には、昼間に吉野が道ばたで会った自衛隊が炊いた米を持ってきてくれた。この日初めての食事だった。おにぎりにして利用者のほか、入院患者など避難している人たちに提供した。残念ながら職員の分まではなかったが、職員は夜勤者用のおやつを食べて空腹を紛らわした。
結局、13日に浪江町職員が来るといったバスは現れなかった。
夜になると、オンフール双葉は完全な暗闇に包まれた。ロウソクの揺れる炎がさらに心細い気持ちにさせた。職員は、不安で眠れない利用者の布団に入り込み、「大丈夫だかんね」と身体をさすっていた。すぐ近くでは建物火災が発生した。窓からは赤い炎の柱が見え、黒い煙がもくもくと上がっていた。人がいなくなった浪江町には消防車はなかなか来ない。なすすべもなく、4軒の住宅が全焼した。14日早朝午前4時半には、双葉署の若手警察官がオンフール双葉を訪れ、「第15条により(オンフール双葉と西病院を対象に)保護する」と連絡に来た。川内村で待機している自衛隊が到着次第、搬送してくれるという。吉野は13日の昼間に道で会った警察官に避難の援助を求めた話をしたが、「何も聞いていないのでわからない」と返事をされるのみだった。警察官は去り、再び淡い期待を抱きながら自衛隊が現れるのを待った。
14日、あたりは明るくなったが、依然避難できる見通しは立たないままだった。入院患者や利用者は寒さと飢えで口数が減り、明らかに衰弱していた。じっとしてはいられない。待ったなしの状況に吉野は渡辺介護部長と、職員の父親の車で、役場機能が移転した浪江町役場津島支所に向かった。
津島支所に移転した浪江町災害災害対策本部で、吉野は馬場有町長を見つけた。吉野は駆け寄り、来るはずのバスがいくら待っても現れず、250人以上がまだオンフール双葉にいること、電気もなく食料もそこをついていることなど窮状を訴えた。
「何とかします。もうすでに計画にも入っているんです。これまでは自衛隊の都合で来られなかったんです。今日の午後4時半には到着することが決まっていますから」
馬場は興奮する吉野をなだめようとしたが、吉野はもう誰の言葉も信用できずにいた。
(中略)少しでもオンフール双葉に残っている人たちのための食料にと、町災害対策本部に大量にあったパンを大袋3袋に詰め込み、吉野らは津島支所を後にした。勢いよく車を走を引き留めるのなららせオンフール双葉に向かう途中、白い防護服を着た警察官に足止めされた。
「3号機が爆発したため、進入できません」
吉野さんは信じられなかった。福島第一原発の3号機が午前11時01分に爆発し、10キロメートル圏内には厳戒態勢がしかれ、警察や自衛隊、許可がある行政職員以外は区域内には入れなくなっていたのだ。
「特別養護老人ホームに高齢者と職員250人も待たせているんです!」
「進入できません」
防護服の警察官は、淡々と吉野の言葉をはねのけた。
「あなたが私を引き止めるなら、あなたは私の代わりに中に入って施設の指揮ができるんですか?」
立ちはだかる警察官を振り切ろうとしたものの、警察官は通してくれない。
「一般人は入れません」
「若い人を残しておけないでしょう!? こっちで責任持つから入れてください!!」
吉野は食い下がったが、警察官は断固として首を縦には振らなかった。どうしようもできない状況に怒りと悔しさがこみ上げてきた。私が帰れなかったら残った職員や利用者はどうなるのか……。想像すると背筋が凍り、涙が波のように押し寄せてきた。もし、戻れなかったら、と思うと気が狂いそうだった。吉野は町長に直談判するしかないと、再度津島地区の災害対策本部に引き返した。
(略)携帯はつながらない。つながってもすぐに切れてしまう。時計は午後4時半を回っていた。この日は、朝食べた1個の饅頭が唯一の食事だった。水も底をつきそうだった。「最終的には自販機を壊して中のものを取り出すしかないね」と、ある職員がつぶやいていた。
吉野が施設を出てから6時間以上が過ぎていた。職員の間にも「まさか」という暗雲が垂れ込める。職員の病状が沈んでいく中で、松永は周りの職員に明るく声をかけた。
「絶対に施設長は私たちを置き去りにして逃げない。自分だけ助かろうという人じゃないから」
午後5時近く、オンフール双葉に警察車両が現れた。中から降りてきたのは、ガスマスクをつけ、白い防護服に全身を包んだ人たちだった。物々しい様相は、事態の深刻さを如実に表していた。職員が「重装備」として身につけていたマスクやゴム手袋がいかにも陳腐に見える。
「なんなのあの人たち」
松永は目を細めた。よく見ると、身体の大きな防護服の人達の中に小柄な人が混じっていた。女性のような歩き方をしてこちらに向かって手招きをしている。松永が不審に思いよく見ると、津島支所に行ったまま帰ってこない吉野たちだった。
「今度こそ自衛隊が救助に来るはずだから」と吉野は力強く声をかけた。
吉野が言う通り、午後9時過ぎに自衛隊と30人乗りの県警のバス2台がついに到着した。待ちに待った助け舟に場が湧き、職員も避難している利用者も表情が明るくなった。施設には利用者をはじめ約50人が残っている。
職員は被ばくしないようにジャンパーを羽織り、頭にはタオルを巻き、マスクとゴム手袋をして外で利用者をバスに乗せる準備を整えた。1台目に双葉厚生病院の患者を、2台目に残りの患者とオンフール双葉の利用者を乗せることにした。不眠不休の業務が続いている職員の身体には、2階にいた利用者を数人がかりで抱きかかえ、階段を移動させるのは大変な重労働だった。真っ暗な中、足元の段差を探りながら移動しなくてはならない。バランスを崩し、途中利用者1人が骨折するトラブルもあった。足の曲がらない人、寝たきりの人など座位が保てない人は、布団や毛布でまるで赤ん坊のようにぐるぐる巻きにし、直角の座席でも姿勢が保てるよう固定した。ある利用者は「このままどうなってしまうの?」といわんばかりの顔で、静かに職員を見つめていた。足の踏み場がばくなるほど車内が利用者やものでいっぱいになると、バスは来たへ向かって出発した。
まだ利用者が施設に残っているものの、吉野も職員も一息ついたとき、自衛隊中隊長が吉野のほうに駆け寄ってきた。
「今のところバスは2台のみで、次のバスの到着がいつになるかわかりません」
今度こそは全員が避難できるとばかり思っていた吉野は、一瞬頭が真っ白になった。その場にいた職員も目の色が変わった。冗談じゃない。何度も来るといわれ素直に待っては裏切られたんだ__。若手の男性職員が中隊長に飛びかかった。
「あんたも人間でしょ!? 私たちに死ねっていうんですか!?」
胸ぐらを掴み、怒鳴り声をあげた。中隊長は慌てて「後からまた来ますから」という。吉野も思わず中隊長の腕をつかんだ。
「あなたは返さない。残ってもらう。「また来る」という言葉に何度裏切られ続けてきたんだから!」
中隊長は「部下に指示を出さなくてはならないため帰らなくてはいけない」という。しかし、吉野の耳には届かない。後ろからも「おかしいだろ!」という野次が飛び交った。
「最後まで私たちと残って、絶対に残ってもらう。私たちもいるんだからあなたもいなさいよ」
吉野は中隊長の腕をぐっと握った。中隊長は困り果てた顔をして「もう、今日はは終わりです」といったが、まったく引き下がらない吉野や職員を見て、しぶしぶバスの手配に着手した。
翌15日午前1時半には、オンフール双葉にいた全員が福島県警のバスに乗り込むことができた。布団でぐるぐる巻きになったまま、バスの床に寝かせられた利用者や、座る場所がないために補助席の間に立った職員で車内はぎゅうぎゅう詰めだ。
松永は、バスに乗りきらなかった」寝たきりの利用者など6人をワゴン車に乗せ、バスとバスの間に挟まれながら、光を失った町を通り抜け、南相馬市の相双保健所に向かった。車中は、寝たきりの利用者がいる一方で、精神疾患のある利用者は薬が切れたためか奇声をあげたりものをなげ出したりするなど、騒然としていた。
一方、バスの中には意識を失いそうな利用者が2~3人いたため、途中で停止して応急措置を行い、近くの病院に救急搬送した。
スクリーニング会場となった南相馬市の相双保健所では、何台ものバスがスクリーニング検査の順番待ちをしていた。この日は、オンフール双葉と同様に避難区域内に取り残された浪江町や双葉町、南相馬市小高区の病院も避難しており、保健所はバスでいっぱいになっていた。検査に時間がかかるためか、午前2時半には数人に限り巣kジュリー人ぐ検査を行い、オンフール双葉から避難した利用者や住民は、福島県警のバスに乗り換え、西郷村の那須甲子青少年自然の家に向かった。車窓からは浪江町ではめったに見ない雪景色が見え、遠くに来たことを知らせていた。
「避難弱者」には、最初の避難先からさらに会津ほか栃木県の施設などに分散されたその後の道のりが詳述されている。本書では浪江町の医療福祉の現場の一端を転載させていただいた。大災害における弱者の救援の実態と課題については、引用書本文にゆずる。
第一章「終わりだ。原発が爆発した」死者が続出した老人ホーム、バラバラに避難した老人ホーム
第三章「やっぱり、高齢者には避難は無理なんだ」避難しないことを選択した老人ホーム
第四章「最後は俺がケツを拭くから。明日にでも受け入れるよ」行政よりも早く避難者の受け入れに動いた会津の老人ホーム
第五章「子どもができなくなったら、どう責任とるんだよ!」現場で戦った職員の本音
第六章「弱者が淘汰されてゆくのかと思うほど簡単に亡くなっていく」今、何をなすべきか
などの章題に、浪江町に取り残された特老「オンフール双葉」でも、鬼気迫る四日間の知られざるドラマを、相川祐里奈はジャーナリスト魂の底力を込めて描いている。