2012・5・13
午前、川俣教会の礼拝に出て、原町へ。駅前のホテルで民間NPOの主催による震災フォーラム。市長、議長、復興庁の役人をまじえたシンポジウムを瞥見。高校時代のテニス部の顧問の恩師が昨年透析できずに関連死されたので、奥様を訪問し、最期の様子をつまびらかに聞いてきた。岩波新書に紹介された伝聞の消息とは、やはり違うニュアンスで、最初は小野田病院の紹介で富山県の病院に7人受け入れるといわれたが、介護の同伴はできず、患者だけの受入だというので、それまでつききりで寝たきり、移動も車椅子の夫をやるわけにゆかずに、断った。結果的に宇都宮病院に受け入れてもらえたものの、こちらも遠距離のため、うけいれてもらえるまで二週間も透析ができず、最後は、意識のあるうちに帰宅したほうがよいと院長から説明されたとのこと。同院は、死去すると翌日に火葬する規約だそうで、未知の土地で骨にされるよりも、意識あるうちに家族に囲まれて最期を迎えたほうが、という配慮で院長みずから助言してくれたので、納得して受け入れたらしい。しかも、ガソリンもなく、一般車両も東北自動車道を入れないときに、わざわざ手配して別なセンターから救急車で自宅まで搬送してくれた人情ある配慮に「納得」もあったらしい。81歳だった。17日間も透析できずに生き延びたのは珍しいのだとか。しかし、救えた命が、あの混乱で消え去ったことは事実だ。他人事ではない。

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