【NHKスペシャル】“原発避難”7日間の記録~福島で何が起きていたのか~
2016-03-06 20:08:42テーマ:福島第一原発事故関連【NHKスペシャル】
「“原発避難”7日間の記録~福島で何が起きていたのか~」
(NHK総合・2016/3/5放送)※公式サイト:http://www6.nhk.or.jp/special/
<感想> 福島第一原発事故の発生から時系列で周辺住民の避難、そして屋内退避による動きを追ったドキュメント。当時の証言や人の動きで事故後の政府の対応が不適切だったことが浮き彫りになりました。
 しかしそもそもの問題として福島第一原発について津波による電源喪失の危険があると指摘されていたにも関わらず、何ら対応してこなかった件。これについては、これから東京電力の当時の幹部たちの刑事裁判が行われますので、是非その場で真相究明してほしい。そして当然重い責任を追及してほしいと思います。
 この放送を皮切りにNHKスペシャルは7回連続で東日本大震災を取り上げるようです。この番組を入れて3つが福島第一原発事故に関する問題です。連日のNHKスペシャルは記事をまとめるのが大変ですが、私も心して観たいと思っています。
<視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>
※見出しは当方で付けました。
・東京電力福島第一原発の3つの原子炉がメルトダウンし7日間で14万人が避難した事故。あのとき何が起きていたのか、これまで詳細は知られていなかった。
・福島県浪江町が職員に当時の行動を聞き取った音声データとその証言を書き起こした記録から避難の現場の実態が浮び上がってきた。
・今回NHKは膨大なデータを元に住民の避難行動を地図上に再現した。3月11日以降の7日間、十分な情報が伝わらない中、住民が放射性物質に晒されていく姿が浮び上がった。
・さらに避難を巡って厳しい判断を迫られた人たちが重い口を開き始めた。原発から9kmにある病院では医師と警察との間で患者の命を巡るギリギリのやりとりが交わされていた。
・さらに周りが避難する中で取り残された家族は、誰にも気づかれないまま食べ物さえ底をつくような恐怖を感じていた。
・映像資料2400点と1000人を超える証言記録から初めて浮かび上がる原発避難の全体像、あのとき情報はどう伝わり人はどう行動したのか、知られざる7日間の記録。
<地震発生直後の福島県浪江町><地震発生直後の福島県浪江町><地震発生直後の福島県浪江町>
・2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生。原発から10kmの浪江町では震度6強の揺れを観測。その後、津波や原発事故に巻き込まれていった。町が職員から聞き取った行動記録には、激しい揺れに見舞われた当時の状況が生々しく語られている。
女性たちがロッカーの下敷きになっていたので、ロッカーを4人で立てて中から2人を救出して(総務課職員・50代)
何十回も電話して繋がらない。どこにも繋がらない状況になっていました(住民生活課職員・40代)
・地震発生から40分後、浪江町を津波が襲った。1000人以上の安否が分からず必死の捜索が始まった。町は直ちに避難所を開設、職員たちは殺到する住民の対応に追われた。
津波からどろどろになって役場庁舎に逃げてきた方がいっぱいいて、その瞬間から「上司に聞きます」「町長に聞きます」「やっていいか聞きます」と言っていることは許されない状況でした(総務課職員・50代)
5人って聞いてたら50人だったんで、それもお年寄りもたくさんいて容易に(避難所に)誘導できる状況ではなかったので、神社の柱とかを切り取っちゃって、それを薪にして火をたいて暖をあたためているような状況(住民生活課職員・40代)
・避難所にいた住民の一人、当時小学5年生だった玉井梨里奈さんは先生の指示で近くの山に避難、そこで津波が学校を飲み込む様子を目の当たりにした。家族と連絡が取れないまま、町の中心部にある体育館に避難した。
もう泣きながらでしたね。(避難所に)着いたときはすごく。家族に会えて泣きながら抱き合っている人とか、「お父さんが流されちゃった」ってお母さんと奥さんが泣いているシーンとか、すごい騒然としてたけど(玉井さん)
・同じ頃、浪江町の西病院には津波に巻き込まれ怪我をした人たちが運び込まれていた。当時病院の事務長だった高塚昌利さんはこう証言する。
真っ黒になって泥だらけで運ばれてきました。あの日は相当寒かったので、患者さんが「寒い寒い」って話していました(高塚さん)
・町で唯一、電気や水が無事だった西病院、入院患者も抱えながら津波による怪我人の治療にあたることになった。余震が続き先の見えない中、目の前の患者の対応に手一杯だった。
<3月11日夜・オフサイトセンターでの動きは>
・同日午後7時、政府は史上初めてとなる原発の緊急事態を発表。福島県職員の高田義宏さんは大熊町にある国の施設オフサイトセンターに駆けつけた。ここに国と自治体を繋ぐ現地対策本部が置かれた、彼は自治体の避難を調整する担当として派遣された。
・福島第一原発から4.9kmに位置するオフサイトセンターは、住民避難の司令塔とされていた。原発に異変が生じた際、ここに国と東京電力、警察、消防、自衛隊、それに県と自治体が集結することになっていた。そして事故の情報を組織の枠を越えてリアルタイムに共有、どこにどう避難すればいいのか協議し、自治体の避難を支援する計画だった。
・しかし到着した高田さんは驚いた。
本当はもう少し、この人数分来るはずなんですが、実際当時来たのは福島県、大熊町、それに警察、双葉警察署ですね。(高田さん)
・津波の対応に追われる中、国も自治体も集まっていたのは一部だけだった。原発の危機が浪江町を含む多くの自治体に伝えられることはなかった。
<3月12日・避難指示が出されてからの浪江町の動き>
・3月12日朝、浪江町の中心部を含む原発から半径10km圏内に避難指示が出された。町はこの情報をテレビを通じて初めて知った。
私は飛び上がって「しまった」と思ったんですよ。私は原発の事故が起きるというのは全く頭にありませんでしたから(浪江町の馬場有町長)
・そのとき人はどう動いたのか、NHKは携帯電話やカーナビの位置情報、浪江町の行動記録などを元に震災から7日間の人の動きを地図上に再現した。
・避難指示を知った浪江町は避難先を探した。当時北に向かう幹線道路は津波で寸断、南には原発、残された選択肢は北西部、原発から20km以上離れた津島地区だけだった。役場の指示により住民は一斉に避難を始めた。しかし津島地区に向かう幹線道路で大渋滞が起こり、通常30分で移動する道のりに4時間以上掛かった。
・まさにそのとき福島第一原発1号機が水素爆発を起こした。当時の風の動きと原発から出た放射性物質のデータ、人の動きを重ね合わせると、放射性物質はまさに住民が避難していた津島地区に向かって流れ込んでいた。この事実を知らずに避難したことが、住民を後々まで苦しめることになった。
・1500人の集落である津島地区に1万人を超える人が押し寄せた。避難所となった施設は着の身着のまま逃げてきた住民で溢れかえった。
・避難所では食事や毛布が足りず、横になることすら難しいほど混雑している場所もあった。避難した住民の中には混雑を避け、屋外で過ごす人もいた。当時小学2年生だった清水郁弥くんもその一人だった。
(避難所は)狭くて暑苦しくて窮屈だったから、その時は(外で)遊びたかったです。雨降ってたのがうれしくて、なんかわかんないけど遊んでました(清水くん)
・郁弥くんの祖父母の根本昌幸さん、洋子さん。このとき洋子さんはテレビで1号機の爆発を知っていたが、それほど警戒心は持たなかったという。
何回も何回も朝から晩まで「ただちに影響ない」って言ってましたよね。みんながここまでは大丈夫だろうって言ってたから、大丈夫なんだろうって。20km以上離れているからという頭はありました(洋子さん)
・12日午後6時、1号機の爆発を受け避難指示が20km圏に拡大した。オフサイトセンターに派遣された高田さん、避難指示の拡大で対応がますます難しくなっていた。
・10km圏内の避難までしか想定していなかった国、それ以上の範囲では避難先や移動手段、避難の対象人数さえ把握していなかった。
・さらに放射性物質から住民を守るための重要なシステム・SPEEDIが機能していなかった。原発から出る放射性物質のデータを収集、風向きや地形などを分析し、どのように拡散するかを予測するシステム。本来この計算結果をもとに住民が放射性物質を避けて安全に避難できる場所を伝えるはずだった。しかし原発の全電源が喪失してデータが得られず詳細な計算ができなかったため、SPEEDIは避難に活用されなかった。
SPEEDIが有効に使えれば、もう少し市町村の避難先も指示といいますか、調整することができたと思います(高田さん)
<3月14日・ヨウ素剤を配布するかどうかの葛藤があった>
・14日11時、3号機が爆発。浪江町の行動記録からは避難所の緊張感が高まっていたことが分かる。
消防団か誰かが外で作業していたんですね。「女の人は中に入れ」って怒られて「原発が爆発したぞ」って(福祉子ども課職員・30代)
発電所で働いていた関連業者の人が避難していたりして、そういう人が「もうすごく今は危険な状態だから、明日にはここを出るぞ」みたいなことを言っちゃう。そうすると「どうなんだ、どうなんだ」とまたザワザワしちゃって(総務課職員・40代)
・当時、町の保健師として住民の対応にあたっていた伏見香代さんは、被ばくの危険性を強く意識した出来事があった。消防団員が持っていた線量計の針が大きく振れるのを見たのだ。
針が振れたのを見たり聞いたりしたので、放射能がゼロではないんだってことが分かって、なんかとても本当にどうしたらいいんだろうって(伏見さん)
・このとき伏見さんはヨウ素剤を配るかどうか葛藤した。甲状腺の被ばくを抑える薬だが、副作用もあるとされている。住民に配るためには国の指示や医師の判断が必要だったが、その確認が取れなかった。
薬剤師さんの調合が必要だっていうこともあったりだとか、上からの指示がなければできないっていうのも勿論あって(同上)
・さらに別の問題もあった。手元にあったヨウ素剤は500人分で、目の前には1000人を超える避難者。みな疲労と不安がピークに達していた。
(ヨウ素剤を)配ったとしても全員に等しく配ることはきっと難しかったと思うし、足りなかったら足りない人がどれだけの不安を持つことか。これだけみんな命の危険を感じてピリピリしている中で、整然とどの人も納得できる形でどうやって配ることができるだろうと、そればかり考えていました(同上)
・結局、津島地区に18あった避難所でヨウ素剤が配られることはなかった。職員たちはどうすればいいのか答えが出せないまま、それぞれが厳しい立場に立たされていた。
妊婦さんからヨウ素剤欲しいと言われたときは困った。あれって医師の指示がないと出せないっていうし。もうすごい必死で「私はお腹に赤ちゃんがいるんだから、早くヨウ素剤ください。ここにあるんでしょ」(税務課職員・40代)
いつ配るのかなこれって思いながら見てて、明らかに用量も全員分はなかったんですね。子どもだけでも配るのかなと思って見てたんですけど、誰もどのタイミングで飲めばいいとか配ればいいとか分からなくて、あるってこともお知らせできなくていたんです(生涯学習課職員・30代)
<患者の搬送手段が大きな壁となった病院>
・3月14日までの人の動きをみると殆どの人が原発から20kmの外に避難していたが、僅かに20km圏内に留まっている人たちがいた。ここが生死を分けたギリギリの対応が続く現場となっていた。
・その一つは津波に巻き込まれた人の治療にあたっていた西病院。14日を過ぎても67人の患者が避難できずにいた。最大の問題は搬送手段だった。患者の多くが寝たきりの高齢者、警察が二度にわたって救助に訪れたが、バスでの移動を求められたことが壁となった。
「寝たきりが多いからバスには乗れない」と。「自分で座位も保持できないしバスには乗れないんだ」と(前出の高塚さん)
・福島県災害対策本部に残されたメモにも、西病院を含め4つの病院から搬送できない患者の救助を求める声が寄せられていた。
・14日午後4時、自衛隊のヘリがようやく救援に現れた。ところが患者の一部を運んだところで、これ以上搬送できなくなったと告げられたという。
自衛隊員は泣いているような感じに受け取りました。助けに来られないことを悔しい思いをしていると感じました(同上)
・自衛隊は取材に対し、西病院での活動は詳しい記録がないため確認できないと答えている。
・再び救助を待つことになった西病院の患者、このとき駆けつけた警察の担当者がバスで搬送するしかないと強く訴えたという。
「原発が爆発したんだ、死ぬんだぞ、死んでもいいんですか」って詰め寄ってきて、胸で突き上げて迫ってきましたね(同上)
・警察は原発の状況がさらに深刻になっているという情報を得ていた。救助にあたった佐藤実さん、一刻も早く患者を運び出すことしか頭になかったという。
このバスで搬送するしかない、ただそれだけですよね。ですから、その搬送の途中で患者さんが容体が悪化するというところまで正直、頭はなかったと思います。とりあえず「あの病院から外に出す」と、「それが命を救う」という思いだけだったと思います(佐藤さん)
・午後9時、西病院の高塚さんは最終的に残された患者をバスに乗せることを決めた。
悩みましたよね、「どうすればいいんだろうな」って。ただその中で職員の離脱とか町の取り残されたりとか、状況が次々と変わってきましたから、まあ避難というような患者の避難を優先しましたね(高塚さん)
・避難を巡る混乱の中、3人が死亡。病院の調査ではその後も避難による負担から死期を早めたケースがあったという。
<3月15日・さらに避難することを決定した浪江町>
・15日、津島地区に避難を続けていた浪江町の職員と住民たち、度重なる原発の爆発から不安が高まり、この日さらに離れた場所に避難することを決定した。
・住民が移動していたまさにそのとき、大量の放射性物質が放出され再び津島地区を通過、降り出した雪とともに地上に降り注いだ。
・情報がない中、結果として放射性物質が流れる方向へと避難してしまった浪江町の馬場町長、住民を守れなかったという思いが消えることはない。
知ってれば逃げませんよ、知ってれば別の方向にね避難してますよ。それがまさか放射能のプルーム(雲)が私どもを追いかけてくるような形になったというのは、これはもう後からですよね。やっぱり一言でいうと悔しいですよね(馬場町長)
<3月15日~16日・屋内退避指示が出された南相馬市>
・同日、2号機から大量の放射性物質が放出、4号機で水素爆発が起こり、原発避難は新たな段階に入った。20km~30kmのエリアが屋内退避区域に指定された。すぐに避難は必要ないものの、無用な被ばくを避けるために極力屋内に留まるようにという指示だ。
・中でも多くの住民が留まっていたのは南相馬市だった。震災当時の人口は約7万、この屋内退避の指示以降、市民は思わぬ事態に巻き込まれていった。
・16日、南相馬市の中心部にある災害拠点病院。原発近くから避難してきた多くの入院患者で溢れかえっていた。この日開かれた緊急会議、入院患者に危機が迫っていた。
酸素が明日の夕方ぐらいに枯渇します。本当にばかな話でタンクローリーと酸素と運転手を確保できたらしいけれども、現地の人は来たいと言っているんですけど、タンクローリーを持っている本社が行くなって言っているらしいです。
・酸素や薬も届かない非常事態、異変はそれだけに留まらなかった。このとき市内のスーパーマーケットは軒並み閉鎖、住民たちは長い列をつくって町に残る僅かな物資を求めていた。
・携帯電話やカーナビなどの情報をもとに人の動きを再現した地図、物資を運ぶトラックは原発から遠く離れた場所では活発に移動している。14日の夜までは南相馬市にもトラックの行き来があった。しかし屋内退避指示が出された15日以降、物資が届かなくなった状況となった。
・実は運送業者の団体には国から屋内退避区域に入らないよう指示が出されていた。
避難エリアの拡大、「立ち入らないで待機して欲しい」という指示、国土交通省から頂いてございます。我々にとってみれば「そこへ行くな」という指示ですから行きようがないんですね(全日本トラック協会の細野高弘専務理事)
・屋内に留まるよう指示する一方、必要な物資の輸送を制限していた国、その理由について「放射線量が高く、避難指示の範囲が拡大する可能性もあったため、民間の事業者を向かわせることはできなかった」としている。
・南相馬市の桜井市長は報道機関も撤退する中、電話でニュース番組に出演し窮状を訴えた。
ガソリン・生活物資が本当に入ってきません。30km以内に屋内退避の指示が出ても、30kmの外でもう交通規制がかかっている。だから殆ど我々物資が尽きます、このままでは(南相馬市の桜井勝延市長)
・避難の必要がないという判断がさらに皮肉な事態を引き起こした。ある福祉施設では物資不足に加え、放射性物質が侵入する不安からエアコンの暖房を切ったため、体調を崩して発熱する高齢者が急増していた。当時施設長だった坂下昌弘さんは状況を確認しに来た自衛隊に助けを求めた。
避難したいので何とか自衛隊の方で搬送を協力してもらえないのかと言ったら「ちょっとそれはできません。ここは屋内退避だから、施設の方で判断してください」ですよ。だから避難指示とは全く違う、屋内退避ですから、自衛隊がそこで「頼まれたから行ってあげましょう」なんてそんな問題じゃない(坂下さん)
・屋内退避指示によって困難な状況に陥った人々は、屋内退避を理由に避難さえ出来なくなったいた。15日以降の人の動きでは、物資不足と放射性物質への不安から自力で避難できる住民たちが次々と出て行く様子が分かる。
<3月17日~18日・独自に避難を呼び掛けた南相馬市>
・17日、屋内退避に限界を感じた南相馬市は独自に市民に呼びかけ、希望者全員をバスなどで避難させることにした。この段階で8割以上の住民が避難、しかしそのことがさらに深刻な事態を招いた。避難することが難しい障害者や高齢者が自宅に取り残されていたのだ。
・取り残されていた大和田みゆきさん、2人の娘は軽度の発達障害で避難先での見知らぬ人との生活が難しいうえ、彼女も持病を抱え、身動きできずにいた。
子どもたちは環境がいきなり変わってしまうとパニックを起こしたり、いろんなストレスとかで暴れてしまったり、避難所にもし行ったとしても周りのみなさんにご迷惑をおかけしたり、または自分の症状が今以上にきつくなるんじゃないかと思って(大和田さん)
・助けを求めたくても周りには誰も居なくなっていた。市は地域の区長や民生委員に取り残されていた人への対応を要請したが、実際にはその多くが避難し残っていた人は僅か1割だった。
人の消えた町というのはこうやって見逃されて取り残されていくんだなって、そのとき思いました(同上)
・18日以降、取り残された人の中から衰弱死する人が相次いだ。ある高齢者が亡くなった経緯を訪問介護に携わっていた女性がこう証言する。
毎日訪問の方だったんですが(屋内退避で)結局訪問できなくなってしまって、3日間は伺えていなかったと思います。
・屋内退避の指示を受け、会社から自宅待機を言い渡されていたが、利用者が気になり4日ぶりに訪問したときのことだった。
利用者さんは全身が紫というか低体温になっていまして、とにかく身体をさすっておむつ交換をして着替えてっていう感じだったんですが。そうしているうちに救急隊員の方に来ていただけたので、でもそこで何か処置をしていただけたかというと、もうそれは難しいということだったので。
・翌日、その高齢者は亡くなった。
お一人でいらっしゃる利用者さんは本当の心細かったと思う。やっぱり待っててくださるわけですよね。自分の力が及ばなかったことにすごく後悔しますし、心のどこからにいつも残っているんですね。あのときもっとこうできたんじゃないか、もう少し何かいい方法があったんじゃないかって。
・南相馬市では3月中に取り残された人のうち5人の高齢者が衰弱して亡くなった。国や自治体の対応に翻弄された末の悲劇だった。
判断としては最善と思ったことも、人によっては逆に厳しい状況に追い込まれたのも事実。自分の悔恨の念というか悔しさもあるし、本当に残念な思いですよね。ああいう亡くなっていってしまったことについては(桜井市長)
<原発事故がどれほどの人々を追い詰めるのか>
・原発事故7日間の記録。巨大津波による津波、目に見えない放射性物質への恐怖、十分な情報も備えもないまま強いられた度重なる避難、人々は突如として重い選択を強いられた。
・7日間で避難した人は約14万人、病院や福祉施設からの避難の影響で亡くなった人は少なくとも99人にのぼる。そして今もそれぞれに残る傷だ。
・避難所の外で遊んでいた清水郁弥くん。2年前に甲状腺癌の検査を受けた結果、郁弥くんに特に異常はみられなかった。しかし家族は将来を思うと不安が消えることはないという。
(避難先が)ひどいことになっているというのは分からなかったので、失敗したなって思いました。郁弥には申し訳なかったと思っています。悔しいですね(祖母の根本洋子さん)
・浪江町の保健師・伏見香代さんは事故後に役場を退職、PTSDと診断された。避難所にいた数日間、どうすればよかったのか、せめてその経験を語ることが今自分に出来ることだという。
もしかしたらもっとやらなきゃいけないことがあって、でも本当に一人だし弱いし、自分も怖かったし。やっぱり次、同じ思いを一人でもしないようにお伝えしてもらえるんだったら、あの(避難所での)3日間の仕事の続きが今日かな(伏見さん)
・屋内退避区域に取り残された大和田みゆきさん、あのときの経験が心に染み付いて離れないという。
常に冷蔵庫には1回の買い物ですごい量を買っちゃうんですけど。それはなぜかと言ったら何かあったときに、もう底をつくというのがあの状況が嫌だから。私の中ではまだ震災は終わってないです。5年経った今でも(大和田さん)
・原発事故は人をどこまで追い詰めるのか、明らかになった原発避難7日間の記録が、その現実を私たちに突きつけている。
(2016/3/6視聴・2016/3/6記)

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