甦る平田良衛 4 出獄後の論説
 母との面会
  平田が検挙前の自らの言動に対して自省を加えるようになったのは、獄中においてであった。そのきっかけは、1933年11月に実母が上京して獄中の平田に面会したことである。面会の情景とその時の心境について、平田は出獄後に以下のように書き記している。

 (母は)顔が真っ黒く陽に焼けてゐた。手の指は太く節立って女の手とは思へなかった。鬼のやうな手であった。
「俺あ一生田の中畑の中を這って暮しただ」と言ってゐた。又、
「こんな所に(お前が)入るべと思はなかっただ」と言はれた。実際私はぐうの音も出なかった。
「早く出た方がいいべ」と言って帰って行った。

 平田が獄中で母に面会して「ぐうの音も出なかった」ことこそが、自省の第一歩となった。独房に入れられていた平田に「何日間か母の顔が見えた」。そして平田は母と過ごした幼少期の追憶に耽った。「私は馬糞を浚って時々母から三銭、五銭を貰った。中学校に進学が決まって下宿する際には、「母は私の着物もズボン下も布団も皆自分の手で織ってくれた。しかしながら「それ以来私は、その当時の母の姿や自分の姿など全く忘れてゐた」ことに、はたと気が付くのであった。「私は今迄私の歩んで来た道、生活」とは、主として日本共産党のシンパや党員として歩んで来た道や生活を指しているだろうが、まさに母ともども「生きた農民を忘れてゐた」ことこそが、平田の自省の核心だったと言えるだろう。

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