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東京電力福島第1原発の構内にある磐城飛行場跡地を示す石碑。周囲は事故後に設置された汚染水のタンクが取り囲む(東京電力提供)

特攻訓練場だった福島第1原発 「国策」の果ての事故現場 「忘れられた過去」の痕跡

汚染水の入ったタンクが所狭しと並ぶ中、忘れ去られたようにぽつんと「 磐城 (いわき) 飛行場」の石碑は立っている。
福島県大熊、双葉両町にまたがる東京電力福島第1原発。未曽有の大事故から間もなく4年たち、廃炉作業や汚染水との闘いが続くこの地は、太平洋戦争中、特攻隊が訓練する飛行場だった。
「飛行場ができる前は、農家が少しあるくらいで、あとは原っぱだった」。原発事故後、双葉町から埼玉県加須市に避難する 吉田 (よしだ) フミさん(91)は、飛行場で働いていたこともある当時を知る数少ない一人だ。
日中戦争が始まり、国内でも戦争の暗雲が垂れ込めていた1940年、陸軍が飛行場の建設を決める。農家は移転させられ、勤労奉仕として周辺の住民も駆り出され、スコップとトロッコの手作業で飛行場は造られた。
実家が双葉町で雑貨商を営んでいた吉田さんは、文書整理などの仕事に関わった。家には、学徒動員で特攻隊員とされた長崎県と長野県出身の学生2人が一時、下宿していた。
上下に2枚の主翼がある練習機「赤とんぼ」が空を飛んでいるのはよく見かけた。「でも、訓練の内容は一度も聞いたことがなかった」。終戦間際、飛行場も米軍の空襲を受け、住民にも死者が出た。
埼玉県北本市の 増田昭雄 (ますだ・てるお) さん(85)は熊谷陸軍飛行学校桶川分教場の整備員だった。戦局が悪化し、44年10月、日本海軍の主力が壊滅することになるフィリピンのレイテ沖海戦で、初めて特攻作戦が実行され、桶川の飛行場でも特攻隊員の訓練が行われた。
増田さんは45年5月ごろ、短い期間だが磐城飛行場で整備を担当した。「断崖絶壁にあって、とても飛行場とは言えないような簡素な施設でね」
掘った穴の中に「赤とんぼ」を入れ、上から葉や木々の枝をかぶせ敵に見つからないように隠した。漁船を敵艦に見立てて、急上昇と急降下を繰り返す訓練。特攻は秘密にされ、整備員の増田さんすら、何のための訓練か知らされなかった。
増田さんが、飛行場が原発に変わっていたことを知ったのは原発事故の後。「知っている人なんてどれだけいるのか。忘れられた過去だよ」
戦後、飛行場跡地は塩田となり、71年に第1原発1号機が営業運転を開始。農閑期には出稼ぎに行く土地柄だったが、東電や関連会社で働く人が増えた。豊かになっていく町で、吉田さんはガソリンスタンドを経営して子どもを育てた。
「特攻隊も、原発事故も私の『1世紀』にはあそこでいろんなことがあった。捨てたわけではないが、もう戻れないでしょ」
戦後70年。「お国のため」に命を懸けた特攻と「国策」の果ての原発事故。廃炉作業を見下ろすように、兵舎跡地に立つ記念碑には平和の祈りが刻まれている。
(共同通信)2015/03/05 12:00

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