戦後70年

3.15いのちの光 第一回講演と茶話会
「浜通りの歴史にみる戦後70年」

勝冶実行委員長(主催者あいさつ) 311東日本震災は、津波だけでなく原発事故との複合災害であったので、原発事故の3.15の日付をつけた。昨日が終戦70年でした。この町がどういう町なのか。なぜ原発があるのか。みなさんとともに学んでゆきたい。
南相馬市原町労働福祉会館にて(佐藤喜彦撮影)
二上 この一週間に四日ぐらい原町に通っている。ここ原町には陸軍飛行場があった、また特攻隊が編成され訓練されたというので、終戦70年の今年はマスコミが一斉にこの町めがけてやってきている。縁の下の情報提供者として忙しかった。きのうで終戦記念日が終わると、次はオリンピックだの安保法案だのでもう戦争特集はやらないでしょう。
1日、チェルノブイリをドイツ語圏に向けて報道しているオーストリア人の青年が原発事故被災地ゾーンを見たいというので、彼の地との比較を車中で話し合った。
同じ日に朝日座という映画館で、日本アカデミー事務局長がこの町にほれ込んで、アナ雪を持って来て子供達に見せてくれた。文化庁の登録文化財になった。これを誇りにして町づくりをしようというグループもある。クーラーのない施設で汗をかきながら、アナ雪を見ました。アナ雪姉妹が、目の前のスクリーンで「ちっとも寒くないわ」と歌うんですね。そりゃあそうですわ。とっても暑いんですから。
大相撲の南相馬場所というのがきました。外国人力士が席巻する大相撲では日本人力士への期待が大きく若い遠藤の人気が絶大でした。それと地元力士の双葉出身の「巨東」にはひときわ大きな拍手が上がって、郷土の復興への思いがこめられてました。わたしは実家の88歳の母親を訪ねて孫たちと来たのです。
きょうの講演を終わると駅前の図書館で「原町空襲と陸軍飛行場」の最終日なので片づけに行きます。6月には原町から出発していった特攻隊が沖縄で突入した日付に合わせて「あの日の空も青かった」という歴史写真展をやりました。特攻隊礼賛と思われると困るので、東京からの集団疎開児童のテーマ「さやうなら帝都、勝つ日まで」と組み合わせた。東京にも郷土史資料館があって、戦争テーマの展示は今や「疎開児童」世代の記憶です。この時代の小高、原町、鹿島について克明な日記を残しているのです。
多くの方々が首都圏から全国からみなさんのように被災地支援に来訪している。多くの人にぜひとも私の故郷南相馬を訪問してほしい。被災の様子も歴史もどんなふうに思ったか、聞きたいし、私の思いも伝えたい。この町がどんな町なのか。それも伝えたい。

この町ってどんな町?
まず最初に、紹介したいのは「移民」の町であること。一番新しい本のプロローグを紹介したい。
最新著「もう一つの相馬移民」という本から序文「移民の町」を朗読。相馬地方は天明天保の飢饉で農民のほとんどが死んだ。幕藩体制下の相馬藩というのは北は新地町から南の大熊町までが旧領地でした。
相馬祥胤※の時代に「間引き禁止令」というお触れが出ている。若い夫婦に最初に男児が生まれれば生かすが、女児が生まれると生産力にならないので間引きするという悪習があった。それほど単位面積あたりの農業生産力の低い土地でした。
相馬藩には北陸から浄土真宗信徒が移民してきた。北陸では加賀百万石といわれるように肥沃で優良な農地を持っているけれども宗教的な戒律として子殺し間引きが禁止されていたので人口過剰でした。
同じように、明治から昭和にかけて貧困ゆえに相馬からブラジルに移民していった。
2012年に朝日座という開館90周年を迎えた登録文化財になった映画館で地域シンポジウムというのがあって、相馬移民が話題になっていたので、パネラーも司会者も富山から来ていて北陸から相馬への浄土真宗の移民を中心的なテーマにしていたので、相馬からは近代になって北南米に、特にブラジルには浪江町と南相馬市が日本一多くの移民を出していると紹介しましたら、おおっとどよめきが上がりました。それくらい地元の歴史をいまの住民は知らないのが実態です。

戦争と平和の70年
もうひとつの本「遥かなり、雲雀が原」は、むかし原町にあった陸軍飛行場から出撃していった特攻兵についても資料をまとめてあるので、終戦70年で今年は原町にマスコミが集中してくる。
でもちょっと待て。なんで、東京のTVキー局どこも特攻隊なのか。それは特攻隊が視聴率を取れるから、デスクが部下に要求するんです。
きのうもフジテレビで千葉すずが原町の特攻隊員と交流のあった女性から戦争について聴くという番組や小栗旬が真珠湾をレポートする戦争特集の番組に出てました。(戦争体験の若い世代への伝承は)やらないよりはいいのでしょうが、人気スターを見たいだけで終わるのかもしれない。いずれにしても70年が終わってしまえば、もう十年後までテレビで戦争特集やることもないでしょう。

樺太真岡電信局事件
樺太の女性電信隊員たちが、8月15日のあと侵攻してきたソビエト軍を前に、最後まで勤務して、青酸カリで集団服毒自決したという事件がありました。原町石神の馬場という地区に志賀さんという24歳の女性が、その電信隊員の一人でした。昭和40年代に勲章をもらいましたが、勲章もらってもねえ。男性職員が替わって残るから女子は全員退避せよと命令されたが、当時の大和撫子は軍国主義教育で最後まで国民の義務として職場を離れない教育で育てられ、それを信じていた。「ロシア軍の戦車が責めてきました。銃撃の音が聞こえます。みなさんこれが最後です、さようなら」という電信を最後に全員がロシア兵の凌辱を恐れて服毒自殺した。そういう時代が70年前にありました。この記憶が9年後の昭和29年に「ゴジラ」というSF空想科学小説の映画になった。南海の原発実験で突然変異で巨大化した怪獣に襲われて、ラジオ塔で「これが最後です。みなさん、さようなら、さようなら」というアナウンサーのセリフは、樺太の真岡電信電話局の女性隊員の最後のセリフの記憶へ追悼だったのです。
いま秘密保護法が決まり、集団的安全保障がいわれる。次は憲法改正と徴兵令でしょう。今の小中学校生徒たちが危うい。

福島県の祖父たちの世代は南京事件の当事者
金婚式を迎えたという、ある兵隊経験者を取材したら、いきなり泣きじゃくる老人がいた。この人こそ南京事件に命ぜられて、銃で捕虜たちを殺したトラウマで泣いたのです。福島県立博物館で「731部隊」を主題にした展示で、若松の65連隊から中国に派兵された兵隊たちが投入されたのが昭和13年12月の南京作戦だった。大正のある特定時期に生まれたわが故郷の先輩たちは、すべて徴兵されてほとんどが若松65連隊に入営し、新兵教育されたらすぐ中国戦線に送られた。
南京事件での軍隊手帳に記録した7万という殺した中国人の数が記録された。20数名の軍隊手帳を集めたうちの7冊が紹介されていた。私は、クリスチャンだった将校が「おれはクリスチャンなのに、なんでこんなひどい運命に遭わせられるのか」という内心の苦悩を綴ってある頁を見た時でした。「汝、殺すなかれ」のモーセの十戒で有名な戒律や、イエス様の行為と生き方で示した「愛」に心酔し洗礼まで受けて信仰の道に入ったのに、試練はやってきた。たまたま出会った歴史ではなく、人間にとって根源的な問いかけを受けるのです。平和な時代なら、純良な人間が試されません。こんなつらい体験はないでしょう。
私の勤務した農業高校の尊敬する温厚誠実な教頭先生も、兵隊時代に中国で民家に押し入って食い物を得るときがいちばんうれしかったと述懐したのですね。
福島市内にルワンダ人の家族の友人がおりますが、アフリカの兵隊には給料が出ないといいます。小銃を支給されるので、みな自分で農民から挑発して食糧を取り立てる。つまり食うために兵士になるというのです。日本の兵隊も似たようなものでした。戦争とはそういうものだという認識を持ちました。

終戦と福島原発
大熊町の夫沢には陸軍飛行場があった。国の土地ですから、堤一族から東電に払い下げられた。福島第一原発で事故が起こってたちまち世界的に有名になりました。東京新聞から電話が来て、磐城飛行場について教えてくれという。どこにも調べる手掛かりがない。
南相馬市図書館に一冊「原町陸軍飛行場ものがたり」という本があった。作者なら知ってるだろうと。ちょうど311の時まで、原町憲兵隊について書いていました。終戦の日に双葉の空に日本の双発機が飛んで「日本はまだ負けてない。降伏せずに戦え」というビラを撒いた。その件について調査のために大熊に出向いた原町の憲兵隊員の証言があったのです。そういう歴史について書いている。準備して待っていたら、それっきりでした。
けっきょく翌年の東京新聞には、有名な学者の終戦対談が載っていた。すべてが原発事故に絡んだ話題でないと問題にもならない。
磐城飛行場にも待機特攻隊というのがあって、短期間の飛行訓練でやっと離陸できるような少年パイロットが促成栽培されて米英軍機動艦隊が本土空襲のためにいわき近海まで来襲したら突っ込めと任命されていた。そのための双発機でした。
戦後の食糧難で浜通りでは塩づくりをした。松林を伐採して燃料にして浪江も富岡も海岸一帯が海水から塩を煮立てて塩を作った。零細な規模でしたから、電気製塩で企業化するにも浪江町長の石川正義親子が上京して堤一族にかけあって中古の発電機を貰って来たといいます。石川はのちに原発誘致を決めます。そういう前段があります。
大熊に原発ができた昭和40年代には、これで出稼ぎしなくも良くなるって原発音頭という盆踊りが行われて大歓迎されました。原発リスクがどういうものかも知らされなかった。建設反対というのは富岡の第二原発以降の話です。
東電にしても当時の福島県伊達郡出身の木川田社長は原発反対だった。いい会社でした。技術系のトップでない事務屋上がりでコストカッターとして経費を掛けないでもうけを出すという最近の経営陣が、金の力にまかせて立地町村の住民の絆を切り崩してきた。
原発事故で全町退避で住民の家族の絆が切れたのではなく、札束で頬をなでられて絆がすでにほころびてしまったために危険な原発を受け容れたという順序だと見ております。

日本の破滅救った浪江の舛倉隆翁のこと
福島第三原発として建設が決まっていた小高と境界の浪江町棚塩には舛倉隆という農民がいて、生前ついに用地を売らなかった。東北電力職員と県土地公社職員の夜討ち朝駆けでほとんどすべての地主が切り崩されて、一人残った舛倉さんは村八分にされてきた。1986年にチェルノブイリが爆発した時、浪江の人達は「舛倉のおかげで原発ができなくて良かった。故郷が救われた」と言って感謝したそうです。あの辺の津波は優に20mを超えて襲来しましたから、もしあそこに第三原発が造られていたら、日本は破滅していたでしょう。それでも浪江小高の人々は今回の事故でふるさとを奪われました。

震災でデビューした各時代の最先端技術
「無線」「インターネット」「you tube」
大正時代に逓信省が対米無電局を設置し、原町に無線塔という巨大なコンクリート塔を建てました。とうじ科学技術の最先端の無線を使って関東大震災でいち早く世界にこの惨事を伝えましたが、阪神大震災ではインターネットが、311ではFACEBOOK、ツイッター、YOU TUBEが大活躍しました。桜井市長の世界に向けたメッセージが泉田新潟県知事をして「被災者を全員新潟に引き受けます」という快挙につながった。
無線塔は、町のシンボルになりましたが、わずか6年しか使われませんでした。昭和15年に建設された陸軍飛行場も、皮肉にも終戦までわずか6年です。戦争では町の発展はありません。国策に協力して町の発展を信じてきたが、科学技術の最先端だといわれて推進されましたが原発も50年であっけなくパンクした。しかも立地町は故郷を奪われた。
浜通りの住民は「原発さえなければ」と言って、原発を誘致したことを深い後悔することばを口にしますが、先の総選挙でも参院選でも原発再稼働を公約にした自民に半分の住民がまた入れてます。そういうことが何んだか私にはよくわかりません。

原発の建設の頃とNHK記者
私の学生時代にNHK原町通信部の記者淀秀夫さんという人物が浜通り地方の原発のニュースをすべて担当していた。その時に取材の仕方などを学んだ。
終戦66年目に原発事故が起きて、再び人が誰もいなくなった。
二度めの爆発があった15日、米国が被曝の危険を理由に事故原発から80km圏外に逃げろという指示を出したとたんに、それまで南相馬市に溢れていた自衛隊も警察官もみな姿を消しました。それと同じく市役所に詰めていたマスコミ各社の大新聞の記者もテレビ局員も忽然とすべていなくなった。桜井市長は、よそでは言わないが福島市での講演で、新聞記者たちへの不満不信をぶちまけてました。
双葉病院で医師と看護師などが患者を見捨てて全員が逃げたという悪意さえ感じさせるような大誤報を垂れ流した。
今春3月1日まで高速道路を通せと首相が言えば通ります。英国皇太子のウイリアム王子が福島県を訪問するというので、首相もお相伴で来県し、ついでに原町まで来て高校の卒業式に出て「君たちは大災害に遭って、これからの将来を切り開く世代」と励ましたが、被害者の彼等への励ましになったかどうか。
霞が関の官僚が、原発事故が起きて5km、10km、30kmという同心円で区切って避難命令を出し、屋内避難、安全と決めた。
神様は皮肉な方で、鹿島町、原町市、小高町というもとの三つの町が、きれいに分けられた。それが反目しているの実態。
テレビでいわれる南相馬って、どこ? と自分でも思っている。五年前に合併したばかりの市ですので、まだ市民は一つの町として融和していないんです。それが、また明確に分断された。意識下の溝が顕在化したのが、この震災でした。
放射能の濃さよりも、隣どおしの賠償と補償金の金額が違うことのほうが、妬ましいのでしょう。政府の分割統治が成功したのでしょう。すべて逃げの政治と行政で国民復旧復興とも思えません。
三陸の被災少女がローマ法皇に手紙で「なぜあんなにむごいことを許されるのですか」という質問を問いかけた。
私自身は、あの津波跡地に立ってみて、お前は準備ができているか? という問いかけを突き付けられた、と思いました。

浜通りから人が消えた日
質疑応答で「空襲の様子について新しい知見があったというのは?」という質問に対して、開催中の戦争70年展示の内容をせつめい。
原町から人がいなくなった最初は昭和20年3月10日のことだったのを最近、八牧美喜子さんの日記に発見した。東京大空襲の日ですが、同じ日にいわきの空襲もあった。パンプキン爆弾と呼ばれる原爆模擬爆弾でした。これは全国49か所のうち郡山と福島といわきの三か所にも落とされた。
浪江町から人がいなくなったのは昭和20年7月。請戸の沖に浮上した米海軍の潜水艦が木造の漁船(日本軍の哨戒船艇に使用された)を艦砲射撃する轟音が夜間にいんいんと響いたので、人々が大八車に家財を積み込んで町を脱出したという。翌日、県庁は浜通り全員の退避を命令しています。原発の爆発で浜通りから人がいなくなったのはやはり退避命令のためでその70年後でした。これはまだ進行中です。

軍属という民間人技術者を取材
今年はパイロットたちを英雄視する地元住民の慰霊祭中心の流れでなく、軍属と呼ばれた整備員たちからの聞き取りで歴史の真実を拾って来た新しい情報を紹介。昨年からことしにかけて取材してきて「軍属ごときの私にまで心を配ってくださってありがたい」という手紙の返事に心打たれました。今までは軍属や地元の勤労奉仕作業で汗を流したことなどは顧みられなかった。しかし整備兵の中には石神出身の青田さんという19歳の若い少年軍属が特攻隊と一緒に行ってフィリピンの山の中で敗走中に病死しています。民間人も多く犠牲者が出た。
青葉町の新妻幸雄さんは八紘隊「勤皇隊」付の十二人のパイロットに十二人の整備士が一緒の汽車で原ノ町駅を出発した。このうちパイロットの一人が朝鮮人で、整備員にも朝鮮人がいた。みなフィリピンの特攻作戦に同行した。新妻さんは乗っていった飛行機も特攻で失ったので帰る飛行機がなく、海軍の爆撃機に乗せてもらって帰国したという。父親の新妻要さんという人が写真の好きな愛好家で、息子がお国のために地元の飛行場の軍属になった記念にいい写真を取って居ました。それをポスターに使用した。
戦争という国の大事業ではヒーローは航空機とパイロットだけでしたから、当時も今も戦闘機乗りがもてはやされますが、エンジンを整備して縁の下の整備士が顧みられたこともなく慰霊祭が続けられ、遺族年金をもらった高齢者が招かれて成り立っていたが、もう生存者が参加しなくなっています。テレビも終戦70年というので戦争を伝えることより視聴率を上げるために腐心しているのが目立った。

日本一福音の薄き浜通りの伝道史
「これから浜通りをどうしていったらいいと思うか?」との質問には、あらためて地域個性をキリスト教の最も薄い土地として説明した。
カトリックのみなさんから「何をしゃべってもいい」と言われていたので、本当にしゃべりたかったことを言いますと、この浜通りはキリスト教の日本一遅れた土地でもあるということ。昭和25年に中国が赤色革命を成し遂げてノルウエー宣教団が全員国外地方されて一時日本に退避してきた時、当時の日本キリスト教界のボスだった賀川豊彦に相談したら、賀川がこうアドバイスしたそうです。もし日本で宣教するなら福島県浜通りが日本でいちばん、キリスト教会の少ない過疎地だから、ここで布教すべしと。
それでノルウエー人グループは、故郷のオスロの信者たちが祈りのグループを作ってお金を出し合い、二人づつ宣教師を送り込んで浜通りに7つの教会を建てた。
2000年にノルウエーに銀婚旅行で訪問した時に、このグループが半世紀にわたっていつも相馬、原町、いわき、宮古の諸教会のためにお金を出して祈り続けている現実を見てありがたいことだと思いました。人間には霊肉ともに必要があります。貧しいのは、戦後全国みんな同じスタートラインからの条件でのヨーイドンでした。伝統の民謡を愛して、いい気風の土地で、自分の生まれた場所だし好きなんですが、原発を受け容れた弱さという福音薄き霊的な土地の矜持が薄かったからこそ、私はそこが破れたのだと思っております。
戦争中、原町の教会は軍部に教会堂を接収され、古山金作牧師は鉱山労働に徴用されて無牧でした。そこに戦後に来たのが双葉郡大野村出身の若い岡田静夫・汐子という牧師ご夫妻でした。岡田牧師は汐子夫人に原町を任せて、故郷の人々を救いたくて双葉郡の貧しいあぶくま山系の開拓入植の村に通って伝道し、昭和23年に村人が米国からバプテスト宣教師を招請して「Walnuts tree valley(くるみの谷)教会」というのを立ち上げました。つまりいまの大熊町ですね。これがいまの福島第一バプテスト教会の始まりです。御存じのとおり全国を転々と放浪して、いわきにやっと新たな教会堂を建てることができました。
岡田牧師の流れのホーリネス原町教会と合流して、原町にノルウエー宣教団の福音教会の基ができ、カトリック教会ができたのが昭和25年。1950年のことでした。
日本キリスト教会も福音教会もカトリック教会も、みな長い歴史で古びてしまいましたが、これまで本部に改築を願ってきてもかなわなかったのが、311という人智を超える災難でかえって「事故原発に最も近い教会」として脚光をあびたせいか、世界中から支援を受けてすべてが改築されてきれいになりました。
親父が亡くなって教会に通い始めた懐かしいカトリック教会のみんさんから、きょうはお招きいただき、また参加者のみなさま、ありがとうございました。
昨今の政治の動きには憂鬱なほどですが、さいきん教えられて気に入っている旧約聖書詩編の37編を最後にお読みして終わります。

1 悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。
2 彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。
3 主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。
4 主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。
5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、
6 あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。
7 主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。
8 怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。
9 悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。
(講演おわり)
注※明和2年6月3日(1765年7月20日) – 文化13年6月20日(1813年7月14日))は、江戸時代中期から後期の大名。相馬氏第25代当主。陸奥相馬中村藩第9代藩主。第8代藩主・相馬恕胤の三男。正室は桜井松平忠告の娘。

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