2016年8月に「福島第一原発観光化計画」を標榜して創始されたメルマガ「ゲンロン」に、「浪江町津島の記録」として執筆した。ダークツーリズムで売り出した哲学者の東氏と作家津田氏らが始めた雑誌だ。ゲンロンには、ぼくの編集担当をしてくれた上田さんというロシア文学家がいて、毎年秋にはチェルノブイリ・ツアーを主宰している。
浪江町議を6期24年。議長もつとめた三瓶宝次さんは津島生まれで津島育ち。2017年3月で高齢を理由に引退。町会議員は何をしていたのか、と選挙で仮設をまわるたびに批判されることもあった。活動の詳細を本にして説明したい、と依頼された。2年かけてインタビューと資料集の編纂で、できるだけ津島での空白の4日間を中心に、そこで何があったのか。物語ってみたい。そこは、まさにTOKIOたちと理想の日本の村を創造していた場所だった。そう。DASH村があったのだ。
エピローグを書き上げたあと、朝日新聞の江戸川夏樹さんの記事を追加して、印刷屋にメールで送った。これが実質的に脱稿になる。
「福島」ミテ ツタエル 外国人、海外に向け発信
朝日新聞福島版 2015年10月15日 江戸川夏樹
原発事故後の「福島」を見て、その姿を伝えようと、県内を訪れる外国人が後を絶えない。海外メデイアや海外発信の動画サイトでは、事故を揶揄するような伝えられ方もあった。だが、除染が進んだことで訪問者は増え、その発信力も増している。
ピーピー。8月の飯舘村に、けたたましい警戒音が鳴り響いた。放射線量測定器が示したのは、この日最高の毎時0.8マイクロシーベルト。オーストリア人のアレクサンドル・クレンベルガーさん(26)は「まだ住むのは怖い。でも、ここはチェルノブイリとは違う。花が植えてある。家も管理されている。ここは生きている感じがする」と話した。
自国ではシリアやアフガニスタンからの難民たちに語学を教えながら、チェルノブイリの取材をしている。県内に訪れた8月、いまだ避難指示が続く南相馬市小高区では、その風景を何十枚もカメラに収めた。崩れたままの家、自転車が並べられたままの駅前駐輪場。「悲しい」とつぶやき続けた。
そんなアレクサンドルさんが、明るい顔を見せた場所がある。
津波に負けずに残った鹿島区の一本松だ。チェルノブイリにもかつyて、象徴的な松があったという。「でも、誰も住まない町では生きられず、倒れてしまった」
アレクサンドルさんは、一本松に期待をかける。「海岸も家もなくなったこの地の震災前の様子はどうやっても想像できない。でもこの松があれば、再び人が集まれる気がする」
オーストリアで福島の報道を目にするのはまれだ。人々は「遠い国の話」と関心をもたない。
それでも、チェルノブイリの企画を地元のラジオや新聞に持ち込めば受け入れられる。来年3月の震災5年にむけ、今度は福島のことを発信するつもりだ。
メルマガ「ゲンロン」からチェルノブイリのプリチャチ村でガイドを務めるシロタ・リュポイさんの橋渡しで友人のアレクサンドル君を紹介してきた。逆に福島の現地でガイドして欲しいというオファーが来た。
福島県からブラジルに移住した日系人も母国の震災に心寄せているという特集記事をサンパウロに派遣されて書いた江戸川記者が、福島県から海外移住百年になり「もう一つの相馬移民」という本にまとめた縁で取材を受け、続けて終戦70年の原町陸軍飛行場の特攻隊員の記事でも協力した流れで、江戸川記者を誘ったのだ。
3人で浪江町まで足を延ばし、津波と原発事故の被災地を案内した。原発建設から反対運動の歴史まで、車中で多くのレクチャーを交換した。
欧州と日本の気候の違いの印象について彼は語り、除染をしないチェルノブイリ方式と、日本での除染が経済主導の工事主体であることを私は説明した。
浪江町は請戸への入り口はバリケードで塞がれ、むしろ帰還を前提に防犯に主眼にされて、除染の工事車両で国道沿いは賑わって活気があったが、小高区は無人のゴーストタウンだった。海辺の津波の跡がまだ生々しく、駅前の高校生たちが乗り捨てたままの自転車の駐輪場や、人っ子一人いない静謐な町の異様な空気に異邦の若者は文化の違いが印象的に見えたようだった。
若者は、ベラルーシからチェルノブイリの出来事を語り部として発信する友人の母親で文学にも秀でたSirota Luboy女史のかいた故郷プリチャチの英語の物語を土産に置いていった。