十一月二十七日
リカコさんと再会。
ショウコさんの弟が、ひょっこりと顔を出した。
「昨日の精進お年、すごかったよ。あなたも来られたらよかったな。地域の仲間がみんな集まってるから、打ち明け話がいっぱいだった。市職員もいるし、東電の従業員もいるし」
「どんな話ですか」
「いろいろあったよ。震災当時の話もあった。あの時、震災の初日からもう東電職員は原発がまずいって分かってて、家族に声をかけてたんだと。十二日に建屋が爆発した直後に、ここらの放射線量もちゃんと職員を派遣して測ってた。毎時40マイクロシーベルト。ちゃんと市にも報告されて、全部分かってた上で、俺たちは屋内退避の指示もなく見捨てられたんだ。外にもある。今、避難区域内へ、一時帰宅ってやってるだろう。二時間だけ家に戻して、荷物をもってこさせてって。あれな、持ち帰ったアルバムだのなんだのに線量計を近づけるとピー、と針が振り切れちまうんだと。でも、持ち主になはなにも言わねえ。そんな話ばっかりだ。ほんと、東電は地域の人間を馬鹿にしてるんだよ」
話を聞いてぞっとした。毎時40マイクロシーベルト。そんな高線量のなかを私はうろうろと、時にはマスクも付けずに歩きまわっていたのか。同時に、三月十二日の、気味の悪い誤報騒ぎを思い出した。やっぱり情報は制限されていたのか。なにもかも知っている人がいたのに、「パニックになるから」と見捨てられたのか。共同体に見捨てられるなんて、そんなひどいことが本当にあるのか。濁った色をした泡がぶくぶくと胸で沸き立つ。弟さんはしかめ麺のまま続けた。
「地域の便減の仲もずいぶんこじれちまった。『お前どこからだ』『小高だ、お前は?』『原町だ』それでもう胸ぐらをつかんだ喧嘩になる。避難騒ぎの時、東電は避難区域の人間は移動させた先で一箇所に集めて、旅館みたいな豪華な飯を出して、一人一組ずつ布団も用意して、特別待遇をしてたんだ。ついたてで仕切られた反対側では、逃げてきた他の地域の人間が床に寝て、握り飯一個しか食ってなかったときにだ」
ちょうど通りかかったいもうとさんがℓ口を開いた。
「その話、職場でもよく聞くよ。避難所で間違えて他の部屋に入ったら、ずらっとお膳が並べてあって、近くにいた職員の穂とに慌てて『ここは浪江町の方限定です。』ってされていた部屋はあったわよ」
ショウコさんの一言に驚いた。全然気が付かなかった。確かに、」避難区域から集団で写ってきた人たちは、私たちの避難所にもいた。名簿に書かれた住所に覚えがある。
原発が爆発したあの日、吸う息がぜんぶ毒なんじゃないかと思い、胸が潰れるほど怖かったこと。テレビで繰り返された、「外出から戻ったら服を全部着がえてください」「シャワーを浴びてくださいの、薄情みすら聞こえたアナウンス。身一つで逃げた避難所に、どうして着替えがある。断水で、シャワーなんか出なかった。シャワーが出たって、水はこの「汚染されているか、いないか」誰にも分からなかったのだ。それでも商店もコンビニもなにも開いていないのだから、必要に応じてその水を飲まなければならなかった。恐怖から蔓延したデマ、同じ福島県民の間ですら起こった差別。