三月十五日
翌日、おはようございます、と言い合うよりも先に、2号機内部で爆発音がしたというニュースが飛び込んできた。もはや誰も動揺しない。表情もなくたんたんと食事をとり、テレビの前で成り行きを見守るだけだ。
十一時半頃、外出から戻ったショウコさんが私の腕をつかんだ。
「移動しよう」
この日、彩瀬は、ショウコさんの車で一緒に、原町の避難所を出発して、途中の飯舘村のショウコさんの親戚の家に寄って福島駅前で降ろしてもらった。飯舘村は全村避難命令がまだ出されていなかった。
福島駅前は小雨が降っていた。
傘を持っていないので、私はハンドタオルを頭に乗せた。放射能、とすこし思う。けれど、つい先ほどまで避難範囲のぎりぎりの場所にいたのだ。原発から五十キロ以上離れた福島市の雨を多少浴びたところで、大して変わらない気がしてしまう。
それよりも、寒い。そしてお腹が空いた。丸二日ほど炭水化物は毎食おむすび一個だった。カロリーが足りていない。
駅前のロータリーにとまるタクシーの運転手に話を聞くと、やはりガソリン不足で遠出は出来ないらしい。となると、県外へバスが出ている会津若松や仙台へ向かうことは厳しい。郡山へ移動して、そこから福島空港へ向かった方が良さそうだ。私は福島駅前で高速バスのチケットを買った。発車まで、まだ一時間近くある。
バスに揺られて郡山へ移動する。郡山駅から空港への臨時バスは出たばかりだったので、近くのタクシーを捕まえた。これから関東へ向かうことを話した。
「俺が実際に運んだわけじゃないんだけどね、同業者の話によると、福島から乗るお客さんで、那須塩原まで行く人もけっこう多いみたいだよ。ほら、あそこ、東北新幹線が復旧しただろう」
いい話を聞いた。
福島空港は人でごったがえしていた。キャンセル待ちの列に五百人ほどが並んでいる。チケットも、東京どころか名護屋や大阪までまったくとれない。
これはダメだ。
もう一度タクシーを拾って、那須塩原へ向かう。すでに夜の十一時を回っていた。
駅前のホテルは予想通り満室だった。私はあきらめて那須塩原駅の待合室へ向かった。
寒い、寒い、全身の震えが止まらないほど、寒い。
高原の地平線が金色に染まった明け方、私たちは始発の新幹線にすべり込んで東京へ発った。