30年前の「大熊町史」
実は、私は前掲「大熊町史」の第一巻。通史の「電力」の章を担当したが、そこではこの地方における「原子力発電所の立地調査」「原子力発電所の建設」について触れたうえ、とくに「原発の事故」という一項を設けた。少し長いが、引用する。
p843~
原子力発電所は、巨大なエネルギーを産みだす。しかし、原子力の制御は難しい。放射能など、現在の最高の科学技術をもってしても、人間はそれを完全に自分のものにすることができないでいるのである。もしできていると思い、原発は絶対安全と考えているとしたら、それはその人間のおごりにすぎない。いつ人間の手綱を離れて飛び出すか予測がゆかない交代にあるわけであるから、ちょっとした気のゆるみがたちまち取り返しのつかない事故につながるのであるから恐ろしい。そうしたことを最も端的に示したのが、飽和五十四(一九七九)年三月ニ十八日、アメリカペンシルベニア州のスリーマイル島で起きた加圧水型原子炉に生じた事故である。
この事故の報が入ると、大熊町の人々は大変な不安におそわれた。また。福島県も浜通りに原発銀座を持つだけに県原子力対策室を中心に強い緊張感に見舞われることになる。そして大熊町にある問う居電力福島第一原子力発電所は、スリーマイル島で事故を起こした加圧水型ではなく沸騰水型原子炉によるものではあるが、四月二十三日、仙台通産局の検査官による国の特別保安監査が行われ、また県と大熊町、双葉町による立ち入り検査が四月二十七日、八日の両日にわたって行われている。

以下、昭和48年の放射性廃液の流出の事故で、大熊町に何の連絡もなかった事例を掲げて、その間の経緯を記しながら、

当時、大熊町では町長の志賀秀正が病気で入院中であり、助役の遠藤正が事実上職務を代行していたが、その遠藤は東電から何の連絡も受けておらず、六月二十六日午後四時、共同通信福島支局の記者から事故についてのコメントを求められ、初めて事故を知ったのである。寝耳に水の遠藤は、早速、第一原発に電話を入れ、詰問した。第一原発では大熊町に六月二十六日午後二時一〇分に報告したと答えたが、その報告はまだ遠藤のところに届いていなかったのである。
問題はそこにあるのではない。第一原発が大熊町に事故を報告したが、廃液漏れの発見から二二時間もたってからという地元に対するいい加減さが問題なのである。もしかすると、県・町・東電との間に結ばれている安全協定を無視して内部でこっそり処理しようと図ったのが、遅延の原因であると疑えば疑えないこともないのである。

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