小高と鹿島の干拓と自然の復旧
2012年9月5日 ·
山田貞策は、輪中で治水工事を手がけた経験から、福島県相馬郡鹿島町の旧八沢浦を干拓した人物。度重なる事故で犠牲者を出しながらも、この事業には宗教的信念が必要と信じて、当時小高教会の牧師だった杉山元治郎に依頼して日曜日に出張伝道してもらった。開拓入植者の小作人が、野良着で礼拝に出て讃美歌を歌った土地だった。仙台神学校のシュネーダー博士も応援に来た。
浦全体を見渡す岡の上に、山田の死後、見守るように山田神社が建立された。しかし、この丘をも乗り越えて、3.11の大津波はムラ全部を飲み込み、家を流し、海へとすべてをさらっていった。僕がブラジルに二度連れて行った西畑さん一家も、孫といっしょに死んでしまった。
いま平和な光景が戻ったものの、津波のあとの三日間は、明治まで入海だった八沢浦の、旧来の姿を神秘的に見せた。
人間の営為はすばらしい。しかし、自然はそれをこえてさらに偉大で神秘的である。
自然の復旧だったのだ。
2016.9.5
小高の井田川浦干拓地はさらに遅く、大正14年に完成した。南相馬市の旧石神村選出の太田秋之助が福島県会議長の権能と、父から継いだ口入家業の太田建設という土建会社のノウハウや資金や公金をつぎ込んで、入り江の湿地であった井田川浦を干上げた乾田に仕上げたのである。ここもまた海の閘門で浦の水を排水し、営々たる人為の結果であった。彼は米本位の日本社会で空無から水田を作りあげて、無為の地図を沃田に塗り替えて一躍、大地主になった。鹿島の山田貞策に匹敵する干拓事業成功者として、のちには国会議員の栄誉まで手に入れた。
しかし関東大震災から以降の日本の底辺で開拓農家の暮らしは地を這うものがあった。世界的な主流となっていたマルクス・レーニン主義を奉ずる社会主義の価値観に根差した思想を理論武装に福浦地区の小作農家は「消費組合」を結成。やがて地主太田との対決によって生活防衛の道を進むようになると、太田一派は古い手法で切り崩しにかかった。暴力の手先で農民を挑発し、対抗した若者を告訴して「小作の暴力」と地元新聞に喧伝させた。
時あたかも農民運動で名を挙げた川俣の政治家八尾板正や、貧者の味方といわれた布施弁護士が農民につき、福浦消費組合の農民はむしろ旗を掲げて徒歩で裁判のため福島に向かった。昭和7年、あぶくま大地の峠に至ったかれらは青く広がる太平洋をみはるかし、小天地の井田川干拓地も小高の里も雄大な大自然の中でこじんまりと美しいのをはるかに睥睨し、これから未知の裁判という闘争の場を目指して、みずからの力に目覚めて「万歳万歳」と叫んだ。
故郷小高の町史を編纂をまかされた平田良衛は、渾身の情熱をこめて「井田川干拓」の物語を記録した。
小高教会と杉山元治郎
https://domingo.haramachi.net/haramachi-christ100year/%e5%b0%8f%e9%ab%98%e6%95%99%e4%bc%9a%e3%81%a8%e6%9d%89%e5%b1%b1%e5%85%83%e6%b2%bb%e9%83%8e/
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