小山睦さん 富岡町
私は浪江町で生まれ、震災当時は富岡町の夜ノ森という所に住んでいました。すぐ近くで「ザイオン」という英会話教室を経営し、大人と子供たちに英語を教えていました。生徒数は130人ぐらいで、大人のクラスは東電関係者の方、子供のクラスは保護者の3分の1以上が東電と関連企業の方でした。
震災時は、3時から英語のレッスンが入っていたので、自宅から出ようとしたところでした。一旦学校に行き、その後自宅に戻りました。
すると、夜の10時半頃、うちで英語を学んでくれていた東電の社員さんから電話があり、「逃げてください。できるだけ遠くに」と言われました。でも、ワンセグでテレビを観てもラジオを聞いても、原発で事故が起こったとは言っていません。だから、彼の言葉を信じないで、そのまま家で待機していたのです。あとで聞くと、もうその10時半過ぎには、現場ではメルトダウンという認識だったそうです。
翌朝、サイレンが鳴って避難指示が出されました。私は、すぐに戻れる、せいぜい一晩泊ぐらいだろうと思っていたので、飼っているビーグル犬二匹に餌と水をいっぱいあげて家を出ました。
その夜は、田村市大越にある体育館で過ごしました。でも、原発が爆発したことが分かったので、犬たちを助けに行くことにしました。父の車で夜ノ森の家に向かいました。警察がバリケードを作っていることも考えましたが、「パパね、この車が壊れても突破します!」と言うと、父は「どうぞ」と言ってくれました。でも警察もいなくて、無事に犬たちを保護することができました。
その後、東京にいる従妹が私たちを受け入れてくれたので、その家に身を寄せ、さらに犬と一緒に暮らせるアパートを探しました。そうして探し出したのが、茨城県取手市のアパートでした。
この3年間でいちばん辛かったのは、取手に引っ越して2ケ月が過ぎた頃でした。もうあの町には帰れない、ということが何となく分かり、取手市にもまだ居場所が無く、自分がどこにも属していないという、一種のアンデンテイテイクライシスのような状態になりました。これから私は何者になっていくんだろう、という感覚がありました。
所属していた福島第一聖書バプテスト教会のみんなは、奥多摩に行っていましたが、私には父と犬たちがいたので、別行動をとらざるを得なかった。だから、疎外感のようなものはありましたね。
でもそんな時に、犬たちが五匹の子犬を産んでくれたのです。もう悩むも何も、その子たちのお世話をしなければならなくなって、それで気が紛れたように思います。そしてちょうどその頃、今の夫になる男性とスポーツジムで出会いました。彼はイエス様を信じてくれて、取手の教会で洗礼も受けました。
その後、教会がいわきに帰ってきたので、私たちはいわきに引っ越し、愛してやまない私たちの教会で、また皆と一緒に教会生活を送れるようになりました。
県外の人などから「なんで東電に怒らないんだ?」と言われますが、私たちにとっては同じ教会員であり、英会話学校の生徒さん、保護者、近所のおじさんだったりするわけです。仲間であり、ファミリー、コミュニテイの一員。だから、怒りが湧いてこないのです。
富岡町に帰りたいという気持ちも、無いです。いや「帰りたい」と言ってはいけないと思うのです。帰りたいと言えば、その程度の事故だったというメッセージになる。子供たちや日本の人たちに、あそこは汚染されていて、もう人が住めなくなってしまったということを伝え続ける必要がある。そして、原子力を原発で使うというのは、神の許しを超えていると思うのです。
舟の右側