佐藤健二・いづみ夫妻 大熊町
夫 自宅は大熊町にあったんですが、私の勤めていた会社は浪江町にあって、妻は自宅で、私は会社で地震を体験しました。製造業で、私は設備設計でメンテナンスをしていました。会社から自宅まで、とても近いのですが、海沿は津にやられているし、山側を通って4時間以上かかりましたね。
妻 その日は息子の誕生日だったんですよ。揺れがひどかったので、息子と二人、軽自動車の中に暗くなるまでいました。
夫 近所には原発関連の人もたくさん住んでいたのですが、その家族は11日の夜には避難を始めていました。もう分かっていたんですね。
妻 私たちは翌日になって、バスも来ないから車で逃げてもいいと言われ、車に荷物を積んで出たんですが、大渋滞でした。
夫 いろんな避難所に行って、どこもいっぱいで入れないと断られて、ようやく田村市の体育館に入ることができました。そこには大型のテレビが置かれ、とんでもないことになっていることを知りました。
妻 体育館には3日間いたのですが、茨城県守谷市の住んでいる妹が呼んでくれて、そこを出ました。
夫 その後、私が勤めていた会社が大熊町から茨城県の日立市に移転したので、家族で日立に住むようになりました。三年が経ちましたが、一年目は逃げるので精一杯、二年目は仕事が本当に忙しくて仕事ばかり、今仕事の方が落ち着いてきたんですが、今度は私の心が辛くなって、会社の健康診断を受けると「心の病気ですん」と言われました。
妻 私は日立に来て、息子が小学二、三年になってくると、なかなかママ友がいない。共感してくれる人がいない。元々の共同体からも教会からも切り離された状態だったので、そこが辛かった。
最初は、引っ越したと思えばいいとか、転勤族はみんなこうなんだから、と思おうとしましたが、やっぱり故郷を無くすというのは…。帰れる場所があるのとないのとでは全然違うと思うのですよね。
夫 私が勤めている会社でも、夫婦が別々で暮らしていたりして精神的に不安定になって、薬を飲みながら仕事をしている人もいます。多くの人が鬱になっています。移転して仕事のやり方が変わって、何をしたらいいのか分からないというのも辛いですね。
妻 私は大熊で学研教室というのをやって、子供たちに教えていたのですが、それが無くなった喪失状態は大きいですね。元々体が弱いんですが、子供たちに教えていると活き活きしてくると言うか、元気だったんです。でも協会がいわきに来たので、私たちもいわきに移れたらいいなと思っています。教会にもすぐ来れるし、気持ちが安定すると思う。いわきから日立は電車通勤もできるんです。
夫 私は今、57歳ですから、定年まであと3年です。
妻 それまでは持ちこたえて。(笑)
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