仲田敬二さん 元東電社員
 私は、福島第一原子力発電所が稼働した直後の昭和46年に追う協電力に入社しました。当時は、あの原子力が平和利用さっるとこいうことで、夢と希望を抱いていました。私は技術職で、放射線量を測定したり、作業服などの装備を考えたりしていました。定年退職後は、第二の職場として関連企業に就職し、福島第一のプラント近くで働いていました。
 3月11日は、福島第一原発の敷地内にいて、現場に行こうと思っていたときにガタンと来ました。私はその会社の副所長という立場で、所長は東京に出張中だったので、現場にいる120名ぐらいの作業員を避難させる役目がありました。全員を確認し、私たちは自宅に帰りました。もう東電の社員ではないので、強制的に返されたんです。所長からも電話があって、「仲田さん、戻らないでください」と。
 福島第一には、同期生が3人現場にいたのですが、数日後、半ば放心状態のような声で、「仲田、水がほしいんだ。今、為す術がないんだ。もう万歳だ。何もできないんだ…」と。そして、中央制御室に何人かいるんだけど、彼らの気が狂わないように願っていると。自衛隊が空から水を投下していた頃です。
 私は避難してて、彼等や後輩たちが線量の高いところで戦っている、それを思うと本当に申し訳なくて…。でも、彼等があそこにとどまってくれなかったら、もっと大変になっていた。福島第二原発も、爆発する可能性があったんですが、そっちもよくやってくれた。あとで後輩が、実はこうだったんだと、昂奮して語ってくれました。もし第二原発も爆発していたら、東京の人たちも避難しなければならなかったと思い増す。彼らの働きには本当に感謝しています。
 でも私は、東京電力の社員として40年間やってきて、皆さんに申し訳ない思いでいっぱいでした。すごく心に痛みがありました。そして避難先からいわき市に行き、そこから福島第一の現場に通うようになりました。グローバル・ミッション・センター(森章牧師)の早天祈祷会でメッセージを聞きながら、自分が高慢だったことを示され、涙ながらに悔い改めました。森章先生たちに手を置いて祈っていただき、赦されたという思いが与えられ、ようやく元気が出てきました。
 私は広報として、自治体の方々にも原発は安全だと伝えてきたわけです。津波というのも、考えてみればあり得た事故だった。もちろん、組織の一員であり、限界もあったのですが、クリスチャンとして為すべきことはあったと思ううのです。そこを悔い改めさせられました。
 私の心の回復は、たはり同じ教会員である福島第一聖書バプテスト教会の皆さんから責められることがなかった、ということが大きいと思います。私が東電の社員だったことは皆さんご存知なわけですが、一度も責めっれなかった。心も、時間とともに教会の中で癒されていきました。
 実は、震災の3年前に妻を乳がんで亡くしていたのですが、震災後、教会の姉妹と再婚しました。新会堂も建ち、今は妻と二人でチャーチスクールの働きをしています。震災後は、やはり地上のものに対する執着が薄くなって、天国への思いが強くなってきました。今後は、元々ビジョンとして与えられている子供たちに福音を伝える働きをどんどんしてゆきたいと思います。

舟の右側

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