東京電力福島第一原子力発電所の事故によって故郷を追われた人々。3年を経て、それぞれどのような思いで暮らしているのか、福島県双葉郡に暮らしていた5人のクリスチャンに、避難の状況と今の思いを聞いた。全員が福島第一バプテスト教会(佐藤彰牧師)の信徒。それぞれの立場、歩みから、今の正直な気持ちを語ってくれた。

持立晴海さん(大熊町)
 私は、原発から約5kmの場所に一人で住んでいました。元々は神奈川県の川崎市に住んで居たのですが、主人が勤めていた会社が企業誘致で大熊町に移転し、私たちも引っ越して来たのです。もう、40数年前のことですね。男二人、女二人の四人の子供を育ててきました。
 私たちが来た頃、まだ原発は稼働していませんでした。商店街も、駅前の一並びぐらいで、スーパーもなかったですね。道路も舗装されていませんでした。ただ、原発が建設されている最中だったので、労働者の方が泊まる民宿が、すごく繁盛してました。
 1971年に原発が稼働し始めてからは、町がどんどん豊かになりました。小中学校も新しくなるし、体育館や保養施設とかがいっぱいできて、スーパーもできました。それはそれは目覚ましかったですね。企業も誘致されましたから、お嫁さんが働く場所もありました。
 私は教会中心の生活をしていましたが、教会にも東電(東京電力)の社員さん、その奥さん、若い人たちもたくさん来ていました。地元の人達よりも多かったと思います。
 原発反対の運動もありましたが、目立たなかったでsね。「原発は安全だ」というPRが左官でした。チェルノブイリの事故があったときには一抹の不安を感じましたが、それが福島で起きるとは思っていませんでした。だから、不安というよりは、田舎にいて都会波の生活ができる、それは東電のお蔭だと、その豊かさを享受していました。
 3月11日、震災のときには教会にいました。私は主人も亡くなっていますし、子供たちも自立して、一人暮らしでした。その晩は、教会に泊まりました。防災無線はずっと何かを言い続けていましたが、聞きとれませんでした。
 翌日、自衛隊のトラックに乗せられて、郡山の温泉施設に連れて行かれ、その翌日は郡山高校の体育館。とても寒くて段ボールの上に寝ました。そのころ、原発はすでに爆発していましたが、そういう情報は全くなかったです。
 それからは、教会の人たちと一緒に会津、米沢、東京の奥多摩と移動しました。奥多摩では福音の家の隣に住む地主さんをはじめ町全体で私たちを歓迎してくださいました。本当に良くしてくださって、涙が出ます。
 千葉にいる長女が「こっちに来たほうがいい」と言ってくれたんですが、私は教会のヒチたちと一緒にいたかった。教会の人たちと一緒なら、どんなふうになっても安心だと思っていました。今は、教会が建ててくれたアパート「エル・シャローム」に住んでいます。
 私は、主人が亡くなってからは、もうどこに住んでもいいなと思っていますので、大熊に帰りたいという思いはありません。東電に対しても、私たちは豊かな生活を世と混んでいたわけですから、怒りとか恨みとかもないんです。

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