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ただし、私は私小説を読むという点では、三島のような作品の方が安心できる.。虚構ゆえの安定感とは、何と逆説的な感じ方なのだろうと思ってしまうが、文学の初歩的な解釈からすれば、アリストテレスのいうように、人間には、自分の体験できぬ体験を悲劇として追体験することによって、その悲劇の追体験を楽しもうとする精神の傾向があるというのは、ゆかいであると同時に、きわめて知的な興味をさそう。
結局のところ、島尾の文学創造の内部過程も興味あるけれど、私にとっては単純で確実なことが一つだけ動かない。つまり、私には体験しえぬ世界がそこに拡がっている。それも生き生きとした青年将校が、徳之島を目指して明るい南海上を航海してゆく。あるいは息を飲むような出撃の特攻隊員が、なかなかはまらないボタンが気になっている。そして、おどおどしたインテリ青年が、やぶれかぶれのような状況下で死と向かいあっている。あるいはまた狂気と隣り合わせの精神病院での夫婦の生活、家族の葛藤などなど。意気ずき、苦悩し、祈っている人間は、みな私たちと同様の人間である。
想像力による虚構に匹敵する。いや、想像を超える現実である。島尾の場合、身辺雑記とも見える格闘が、いつのまにか現実を通り越して、向こう側、つまり一つの小宇宙に達してしまっている。
それは作家にとってはとまどいであり、おそらく読者にとってこそありがたい結果である。人間は現実に生きる。しかし現実を生き重ねてゆくうちに、現実が確かなものでないとに気が付く。現実と言う確かだと思っていたものを重ねてゆくうちに、ひょっとして現実を越える瞬間が人間にはあるものだ。我知らず自分が自分を越えている、そういう突き抜ける感覚があるものだ。
島尾は夢を書いても、その夢は整理されて明瞭に見えてくる夢だ。その明瞭さを重ねることを島尾は続ける。島尾自身は「非超現実主義的な超現実主義の覚書」でこう書いているのは、その証左であろう。
「眼に見えるかたち」のまま移しとりのつみ重ねの末に、ふとあらわれたゆがみこそがわれわれを鼓舞する」。」
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