12名の犠牲者出しようやく完成

 杉山牧師は農学士でもあり、その後入植者たちの農業指導にあたり、夜は説教して精神的な訓話をほどこした。素朴な入植者たちは等しく貧しく平等であり、一種の原始キリスト教的雰囲気の中にあった。開田の時に、杉山は恩師である東北学院のシュネーダー博士を八沢浦干拓地に呼んだ。博士はこの地に祝福を与え、こう言ったかも知れないと想像してみる。
 「ここはモーゼが海を分けて神が作ってくださった土地です。これこそは神の奇跡でなくて何でしょう」
 野良着で大男の入植者たちが敬虔に聞き入り、ひとしおの感動を味わったかも知れない。
 明治44年、耕地整理共同施行を申請して、同年12月28日許可された。出崎猪之介は同じ年相馬の新沼浦六百町歩の干拓事業のため八沢浦を去った。彼にとって生きる場所は、つねに技術の世界であったから、一つの事業の成功に止まることはなかった。猪之介の娘にあたる武口周子さん、相馬市在住は次のように語る。
 「父は晩年、朝鮮へ渡って干拓事業をする夢を持っていたようでした」
 ひっきょうエンジニアの典型的な生涯を見る思いがする。
 干拓事業成功の後は山田貞策の娘婿山田茂治が耕地整理事業の任にあたった。山田貞策はその後郷里の岐阜へ戻って村会議員と県会議員をつとめた。山田貞策の一生の大事業はこのようにして福島県相馬郡鹿島町の八沢浦(当時は相馬郡八沢村)に残された。出崎栄太郎も山田貞策も相馬の人間ではなかったが、相馬の人々にとっては忘れてはならぬ人物だろう。そんな意味をこめて、郷土の先行者たちの中に列せらるべきである。
 その後、年々改良がくわえられ、八沢浦干拓地は順調に発展したが、不幸にも海底トンネルを掘ったサイフォン式海中排出口から海水が侵入し大正15年1月、宇都宮清三当時39歳、佐藤一郎32歳、前川長命36歳、の三名が殉職。土用丑の日に、再び砂詰まりを取り除こうとして事故がおこり、人夫8名が死亡した。
 上谷地武38歳、宇都宮栄一27歳、泉亀松23歳、相良亀次郎37歳、大久保幸記24歳、荒運記25歳、今野善助43歳、渡部冬治38歳らである。
 八沢浦干拓機械場にある山田神社の傍社が、彼等犠牲者を祀っている慰霊碑である。
 北海老の小高い丘の上に太平洋を見下ろしながら、干拓の記念碑は、一つの歴史を秘めながら建っている。

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