二人の警察官
東日本大震災が起きた3月11日、JR新地駅(福島県)でホームに止まっていた常磐線の電車が津波に襲われた。多くの乗客がいたが全員が直前に避難して、けが人も出なかった。たまたま乗り合わせた若い警察官2人の判断と、偶然が、約40人の命を救った。その日、相馬署地域課の斎藤圭巡査(26)と吉村邦仁巡査(23)は、職場実習後の仕上げとなる初任補修科の卒業式を終え、福島市の警察学校から仙台駅経由で常磐線に乗り換えた。赴任先の相馬署に向かうためだった。
上り電車(4両)が新地駅に停車し、出発しようとドアが閉まった午後2時46分、地震が起きた。車両全体が激しく横に揺れ、手すりにしがみつく乗客の悲鳴が車内に響いた。3両目に乗っていた2人は、20~70代の乗客約40人の無事を確認、乗務員4人に伝えた。その時、乗客の男性が持っていた携帯電話ワンセグテレビが「大津波警報」の発令を知らせた。
駅は海から約500メートルしか離れていない。相馬署で職場実習をした経験があり、土地勘があった2人は、反対側に約1キロ離れた高台の新地町役場に乗客を避難させるべきと判断。吉村さんの誘導で、乗客たちは歩き始めた。ところが、70代の女性は家族を待つために駅に残ると言った。
「ここは危ないので離れた方がいい」と斎藤さんは女性を説得、5分遅れて一緒に避難を始めた。女性は足が悪く、集団との差は300メートルほどあった。振り向くと、駅の方から津波が押し寄せ、茶色の水が車や家を押し流す様子が見えた。
「間に合わない」。そう思った時、近くの男性が運転する軽トラックが後ろから近づいてきた。女性が助手席に、斎藤さんと近くを歩いていた住民3人が荷台に乗った。津波は軽トラックの後方、200~300メートルまで近づいていた。最終的に町役場から数十メートル、海から約1・2キロ付近で津波は止まった。
いま新地駅の駅舎はなくなり、ホーム西側にそのときの4両の電車が折れ曲がって散乱している。勤務する予定だった駐在所も津波で流された。2人はいまも、相馬署管内の沿岸部で行方不明者の捜索を続けている(取材記事:小寺陽一郎氏)。4月5日撮影。
翌朝には、このニュースは大きな明るい新聞記事になっていた。劇的な警察官の引率で、乗客全員が、命を落とすことなく救助されたのだ。
不思議なめぐりあわせがあるものだ。奇跡というものは、あるのだろうなと。善意と信念と奇跡の物語として。
警察官が乗客など40人救う:NHK報道
今回の震災で福島県ではJR常磐線の電車が津波に飲み込まれたが、乗客などおよそ40人は、高台に避難したため無事だった。電車に乗り合わせた2人の警察官の的確な判断が乗客の命を救った。
震災当日、11日午後2時40分すぎ、仙台から福島県南相馬市の原ノ町駅に向かっていたJR常磐線の4両編成の普通電車が、福島県新地町の新地駅に停車中、津波に飲み込まれた。警察などによると、電車には乗客や運転士などおよそ40人が乗っていたが、乗客はおよそ1キロ先の新地町役場に避難し全員が無事。
乗客を誘導したのは、電車に乗り合わせていた福島県の相馬警察署の齋藤圭巡査と吉村邦仁巡査の2人。28日、当時の状況について取材に応じた。それによると2人は車内で大きな揺れを感じたあと、ほかの乗客の携帯電話のワンセグで大津波警報が出たことを知り、高台に逃げようと判断。2人は乗客を誘導して電車から降ろし、駅前の広場に集めたあと、吉村巡査がばらばらにならないよう声をかけながら役場まで一緒に歩いて避難した。さらに齋藤巡査は通りがかった車を止め、乗客の中にいたお年寄りの女性と近くの路上にいた別の2人のお年寄りを車に乗せ一緒に移動した。避難の途中、車や住宅を飲み込んだ津波が数百メートルの距離まで押し寄せてきたが、およそ20分で全員が役場まで避難できた。齋藤巡査は「あと5分でも判断に迷ったら、間に合わなかったと思います。警察官としての使命感から必死にやりました」と話した。また、吉村巡査は「被害に遭った住民の方々がまだ、たくさんいるので引き続き支援を続けていきたい」と話した。
四十人の乗客の中には、地元の相馬市の福音教会の信者がいた。相馬で会った友人が福島市に避難してきて礼拝に合流したので、間接的であるが詳しく状況を聞いた。
足が悪くて「もう歩けない」と思ったというSさんという女性こそ、その信者であった。後ろから巨大な壁のように立ったまま追いかけてくる津波が見えたというのだから、その恐怖はどれほどであったろう。その瞬間諦めて(自分にかまわずにみんな逃げてくれ)と思ったところへ、一行が逃げて行く道をちょうどトラックが通り掛かって遅れた乗客と警察官ごと拾ってくれたというのだ。
まるで、ソドムとゴモラの創世記の破滅から逃れるようなロト一家のような物語ではないか。「インタビューしたいでしょうけど、あのSさんは精神的に弱い人だから、そっとしておいてちょうだいね」とこの逸話を教えてくれた相馬市から避難してきた友人からは念を押された。いずれの機会にか、確認したいとは思っている。
「ふくしまに生きる 福島を守る」
神に選ばれた男。齋藤圭巡査。相馬警察署の若い警察官は、あの悲惨な地震津波の大震災のニュースの中で、最初の明るいニュースとなった。それは、奇跡ともいうべきエピソードだった。福島県警の互助会から「ふくしまに生きる 福島を守る」と題する本が出た。この逸話を紹介するだけでも、本書は出版の意義があろう。彼は福島のいのちを守ったのである。
その一方で、大震災で殉じた多くの警察官がいた。殉職警察官は岩手8人、宮城11人、福島3人、 東北管区警察局1人の計23人。ほとんどが、住民避難誘導中に津波に巻き込まれた殉職だという。
福島第1原発の半径10キロ圏内を捜索中の県警機動隊員が15日午前、同県浪江町請戸の水田で、福島県警双葉署地域交通課の古張文夫巡査部長(53)の遺体を発見した。
住民の避難誘導に向かい、津波に巻き込まれた福島県警双葉署地域交通課の増子洋一警部補(41)の死亡を確認したと発表した。殉職は23人目で、依然7人が安否不明となっている。
きょうされん大和田新 福島レポート
浪江町の中心部。
双葉警察署交通課長の平野さんから、町の被害情況、4月から警戒区域が解除された後の問題点と警察の取り組み等の説明を受けた。
旧浪江警察署で、原発事故で遅れた20キロ圏内のご遺体の捜索や、遺族との対応について貴重な話を聞く事ができた。
原発事故後、いったん打ち切られた遺体捜索が再び始まったのは、4月になってからだった。
そして旧浪江警察署(現双葉警察浪江分署)に運ばれてくる損傷の激しいご遺体を、警察官は丁寧に洗い棺に納めた。
しかし、ご遺体と対面した遺族は言う。
「こんなんじゃ、分からないだろう!今までお前らは何をやっていたんだ」と。
遺族対応に当たっていた平野さんは「申し訳ありませんでした」と、頭を下げるだけだった。
「捜索が遅れて申し訳ありませんでしたと、警察官は皆、泣きながらご遺体を洗っていました」と、平野さんは語った。
そして後日、平野さん達を怒鳴り付けた遺族が「あの時はお世話になりました」と安置所に挨拶に来てくれた時は、涙が止まらなかったという。
福島県警では、この震災で5人が殉職している。
浪江町で最も津波の被害が大きかった請戸にある、殉職警察官の慰霊碑を訪ねた。
彼はその日は非番だった。地震発生直後、浪江分署に駆けつけ、若い警察官2人と請戸地区の住民の避難誘導にあたった。
幹線道路は渋滞、若い警察官2人を先頭に立たせ、自分は渋滞の最後方で住民に車を降りて走って逃げろと指示を出していたところを津波に襲われた。
遺体は4月15日に瓦礫の下から見つかった。53歳だった。将来は、故郷の矢祭町に帰って、農業をやるのが夢だった。煙草の好きな人だった。
長い間手を合わせていたカンニング竹山さんは、自らの煙草に火を付け、線香と一緒に霊前に手向けた。
(殉職警察官5人のうち、26歳の若き警察官がまだ見つ かっていない)
合掌。2013年3月12日 第262話 浪江レポート③
堀潤のテレビでは言えない話
「東日本・津波・原発事故大震災」から今日で3年5ヶ月経った。
福島県では5人の警察官が殉職している。1人はまだ、見つかっていない。
双葉警察署浪江分署に勤務していた古張文夫警部(55)はその日、非番だった。
直ぐに若い警察官2人をミニパトに乗せ、沿岸部に急いだ。そして、住民の避難誘導中に津波にのまれた。
震災からおよそ1ヶ月後の4月15日に、瓦礫の下から発見された。警察官の制服を着ていたので、からかろうじて古張さんだと判明した。
双葉警察署が作った慰霊碑が、発見現場にひっそりと建つ。
古張さんは酒と煙草が大好きだった。慰霊碑にはいつも欠かさず、供えられている。定年後は、故郷の矢祭町に帰って農業をするのが夢だった。
5人の殉職警察官に改めて感謝の気持ちを捧げる。「ありがとうございました」。
そして、この東日本大震災で、福島、宮城、岩手の被災3県で、地元消防団が253人も亡くなっている事を忘れてはならない。(阪神淡路大震災では消防団の死者は1名)
住民の命を守ろうとして亡くなった、町の英雄達を、決して忘れない。
注。「東日本大震災と原発事故から3年5ヶ月 殉職した警察官へ」
http://ch.nicovideo.jp/horijun/blomaga/ar598045
満6年を迎えた2017年3月11日には、南相馬警察署の庭に双葉警察署の殉職警察官の顕彰碑が建立された。つづいて富岡町の双葉警察署には4月11日に顕彰碑が建立された。
業務再開した双葉署
福島県警双葉署で行われた殉職警官の顕彰碑の除幕式=11日午前
東日本大震災から6年1カ月となる11日、福島県富岡町にある県警双葉署で、住民の避難誘導中に殉職した署員を顕彰する石碑の除幕式が行われた。富岡町の避難指示一部解除に合わせ、同署は先月30日に本庁舎での業務を再開した。
顕彰碑には、増子洋一警視=当時(41)、古張文夫警部=同(53)、佐藤雄太警部補=同(24)=(いずれも2階級特進)の名前が刻まれた。3人はパトカーで住民を誘導している時に、津波にのまれた。
菅野紀之署長は式典で「3人の崇高な警察魂を伝統として語り継ぎ、双葉を守るという揺るぎない決意で職務にまい進する」と話した。