烏崎海岸
鹿島区烏崎は、もっとも海岸に迫る場所に百戸の商店を含む住宅地。根こそぎ基礎部分から家々が引き波に持ってゆかれ、山間のはざまに、遺体が5,6体づつ固まって発見された。近所の人々にしてみれば、知り合いの、誰が誰とわかる遺体ばかりだったので、もうここには住みたくないと言っている。
取材で訪問したことのある平大工さんはどこへ避難しただろうか。彼の倉庫には、真野川上流の川岸で発見した大型犬ていどの肉食小型恐竜ラプトルの、まことに鮮やかなフット・プリント化石があったはず。また新種のシダ類の各種の化石など、貴重な自然の遺物がごっそりあった。
ぼくの妻や子どもを福島から連れてきて見せてもらったほどだった。ここに暮らしがあった。文化があった。港があった。郵便局があった。パーマ屋さんがあった。米屋があった。じいさんがいた。ばあさんがいた。
夏には。海水浴の若者が、防潮堤のうえで、カラフルな服装を鮮やかにひるがえしていた。ここはふるさとであり、生活の場であり、生産の場所でもあった。
もう基礎だけ残して、あとかたもない町の跡に立って、何を言おうか。なじみの風景が瞼の奥にある。目に前には、自然の始原の光景がひろがっている。なんと川崎の人々に説明しよう。感情は、語る直前に唇の先で揮発し、消えてしまう。ただ時間と、状況と、事実と、それぞれの場所の発見された遺体の数と、報道の経緯を語った。
それだけで、もうあふれてきて、それ以上を語れない。この光景を見てしまったものには、国会の空転や、空疎なゴシップ報道など、遠い騒音にすぎない。
北泉海岸
原町火力発電所が地震で火事になった。消防職員たちが、消防車で向ったが、道を間違えて小高い丘の上に出た、道を教えた人が間違ったらしい。それが九死に一生を得た。
右田海岸
「津波が来るから逃げろ」と広報しながら、烏崎から八沢方面に海岸道路を右田の田んぼの中を走って振り返ったときに黒い壁が自分たちに向ってくるのが見えた。一瞬からだが凍りついた。
松林のてっぺんを乗り越えて、黒い壁が。
反対側の西側に、とにかくアクセルを床いっぱいに踏み込んで、舗装されていない砂利道を突っ走った。
バックミラーに、壁が追いかけてくるのが見えた。
助かった消防車に載っていた消防隊員の話。
休漁期で助かった
小高区の村上海岸に住む漁師の話。
山陰だったので、自宅の一階部分が津波に破壊されただけで済んだ。
見せてもらった。ピアノがひっくり返り、仏壇が倒れ。
「あの日は、ほっきの休漁期だったので、時節柄、税務署に申告しに行っていた。
「税務署は、いつも敵だが、この時は、税務署に感謝したね。」と語る志賀さん。
しかし、新築五年でそっくり形をとどめていても、一年以上も立ち入り禁止されたために、カビと湿った風とで、とても住めない状態だ。
燕の巣が作ってあった。もちろん、がらんとした壁のない家の、内側に。壁に、海水の跡が水位になって色違いになっている。
ぼくと同じ身長の高さ。170センチぐらいだが、道路から6~6メートルも高い地所に、さらに土盛りがしてあって、」基礎部分だけでもさらに高い。
優に10数メートルあった。
防潮堤を超えて、直接きた津波が小高い丘にさえぎられ、ほかの家はすべて流された。白く塗られた巨大な貨車コンテナが、庭先にあったが、これは海に近い家にあったものが、流されて横倒しになっていたもの。
ヨッシーランド
雨の中で、19日原町区渋佐海岸のヨッシーランドという老人介護施設の津波廃墟を訪問し、川崎グループ一向に見てもらった。
津波報道の直後に、テレビの第一報で扱われた死亡事故の現場。
36人の死者と1名の行方不明を出した。
正面玄関に近づいてゆくと、きわめて大きく、しかも立派な構造の建物であったことがわかるが、爆撃で吹き飛ばされたようなぼろぼろ状態。玄関の上から、電線がぶらさがり、すべての壁が、風の通り抜けて、中も見通せる。大きな窓枠が破壊され、中は片付けられしまって空っぽ。
まさに廃墟だ。海に面した部屋を見た。泥水が天井まで充満し、すさまじい並みの跡が、抽象画の天井画のようにペイントされていた。
正面通路はがらんとして、汚れた机が中央に置いてあった。ペットボトルの飲み物や、線香が載せてある。かたわらには多くの花束がバケツに刺されて、整然とはいいがたいほど。
奥へと続く通路の壁に、私の身長と同じ高さの泥水の水位がはっきりと塗られて、跳ね上がったしぶきの飛沫がそのまま描かれている。こうして波が勢いよく浸入し、引いていったのだろう。
個室を一室一室覗いてみた。壁にまだ、名前の札が残されていた。
この建物の中身は片付けられたが、すべての人が見ておくべきだと思った。壁の泥水の跡だけでも、津波の爪あとが、明確にわかる。
新聞記事や、テレビ画像で、何度も見た施設なのだが、初めてこうして現地を踏むと、まったくの別物だ。「モノ」が、訪問者に直接語りかけるのだ。
この体験は、この場に立つとわかる。
そう思っただけで、胸がつまり、責任感であふれてくる。
写真で記録するだけでは、この状況は無理なのだ。この空間に立つこと。廃墟じしんが語りかける声を聞くことでしか、伝わらないだろう。
311-youtubeで世界に伝えた南相馬市の孤立無援