フクシマ50 Fukushima50

 2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震の後に発生した津波によって福島第一原子力発電所の原子炉の冷却機能が停止し、それらの復旧作業や応急処置のために同発電所には社員を含め約800人の従業員が従事していた。しかし、懸命の復旧作業にもかかわらず、原子炉1号機の水素爆発など度重なる原子炉爆発事故が発生し、遂に3月15日には、原子炉4号機の爆発と火災が発生。この4号機の爆発は使用済み核燃料プールに保管していた「使用済み核燃料」が建屋(たてや)上層にあり、爆発によってそれが露出した可能性があることと、放射性物質が飛散した可能性があるため、これらの危険回避の為に人員約750人は東京電力の指示によって避難した。しかし、約50人が現地にとどまり、福島第一原子力発電所の被害を食い止めることに尽力した。これを日本国外メディアが彼らを地名と人数を合わせた「Fukushima 50」の呼称で呼び始めた。(Wikipedia)
  友人のYさんは原町キリスト福音教会のメンバーの一人で、家族ぐるみの信者だった。1993年の秋、オーストラリアのブリスベン公立ランコーン高校の生徒20数人と2人の引率教師を二週間の宿泊で引き受けてくれないかと後輩のPIEE(パシフィック国際交流教育財団)の鈴木義弘君(のち理事長)から要請されて、ホームステイしてくれる家庭を募った。同財団は三木首相睦子夫人なども参加する篤志家が始めた日米欧間を中心に高校生ら若い世代に海外相互での国際理解を与えることで、世界平和に寄与する若い世代を育てるという目的の組織。しかし受け入れ団体が宿泊のすべての費用を受け持つ。ボランテイアによる奉仕が基本だ。
 せっかく滞在期間中は日本文化に親しむ機会を増やしたい。ホストファミリーには普通の共働き家庭もある。老若男女さまざまな状況で、国際理解に参加したいという意志だけが共通なので、平日の日中はすべてカリキュラムを組んで行動し、土日だけ週末をホストと一緒に生活してもらうことにした。わたし自身は文筆業なので収入はしがないが時間だけはたっぷりある。土日は担任教師を一泊二日の福島旅行で会津散策と五色沼ツアーで家族とともにモーターボートのクルーを楽しんだ。私は実家と家族の二重生活をしていたから、二週間すべてをオージーたちと行動したのだ。
 一番苦労したのはマイクロバスの手配である。格安のガソリン代だけで手も地のバスを必要な日程に出してもらうが、どうしても予算のないところは趣旨を理解したうえで無報酬で提供してもらうことになる。けっきょく大熊町の福島第一原子力発電所の見学と、福島県庁への表敬訪問と義母が経営する現地の幼稚園と妻が勤務する公立小学校児童らとの交流会の福島市ツアーに2つの大きな日程を担当してくれたのがY氏だった。
 Y氏は東電社員ではなく、いわゆる協力企業の社員である。そこの企業の社長が外国人との国際理解というものに関心が深く、彼がホストを名乗り出てオーストラリア人高校生の二週間の就学旅行には、一肌脱ぎたいと言ってくれた。しかし、金はない。バスがない。けっきょくその善意の企業に重要な2日のツアーを運転手をやってくれるYさんごと借りることになり、そのうえ原発という興味深い施設の内部まで特別に見せてもらえることになったのだ。
 20数人の外国人高校生を引率し通訳しながら中央制御室までぞろぞろと入って見学した。最初に「黄色い線から内側には絶対に入らないでください。運転に支障がありますから」と、東電社員の係員の注意があった。壁一面に計器類が配置されている。方法写真でしか見ることのない現場に立ち入って緊張した厳重な管理の一方に、原子力発電という仕事にこめられた最先端の技術をみずからが携わっているという誇らしさもあるのだろうな、と感じた。自分たちが働く姿を金髪碧眼の若い世代の自分の子供のような少年少女に見てもらえることに、こそばゆいような快さの混じった微笑が垣間見えたと感じた。
 中央制御室への出入りの途中で、原子炉建屋への侵入口から、防護服を脱ぎ着している肌着姿の作業員の姿を瞥見し、この最先端の文明の夢の工場が実は修理もメンテナンスも重要な細部ですべてマンパワーで成り立っているという「大人の事情」で支えられているからだ。 
 私自身は原発の受け入れは反対である。雑誌「月刊政経東北」には、終始批判的な立場と意見で県の財政政策について論評してきた。しかし、原発という施設を実見する貴重な機会は逃したくない。原発にさえ行きたくないのに、その隣にある県の漁業栽培センターの探訪レポートまで命じられて書いたりしていた。原発記事でないレポートまで大熊町に出張するのは、しょうじき嫌だった。双葉地方に足を入れる仕事は、できることなら敬遠したいと思った。自分がそこにいる間に原発事故が起きるなんて、とても最悪のシチュエ―ションだった。
 あくまで故郷の歴史に寄り添って、産業と財政のゆくすえを観察する記録者としてだけかかわりたいのだ。
 そのYさんが原発に残って働いている、と聞いてはいた。
 原町の実家の老いた母を訪問するたびに、福音教会の礼拝に出た。Y氏の信仰熱心な奥さんが来ている。彼女から間接的にY氏の近況を聞く。最近はずいぶんやつれた、という。1エフでは、ゆっくりは休めないらしい。家庭に帰って来れるのは一か月に一度だという。
 私が原町まで行くのは土曜日曜だけだ。国家の一大事で、懸命な重要な仕事に携わっているというYさんに関しては、彼が働く環境が守られて体をこわさないで(せめてきちんと眠れますように)と祈るだけだった。
 そうこうして原町行きの何度目かに、Yさん宅を訪問した折にYさんが運よく帰宅していた。「ああ、二上さん。久しぶり」たしかに、ずいぶんYさんは痩せていた。
 311から以後の凝縮した体験をいろんな知人や友人から聞いているが、くだんの原発の現場で働いている彼じしんから聞く機会はめったにない。
 「大変ですね」と、ごくありきたりの挨拶でYさんとの会話つまり壊れた原子炉のすぐそばで働く男の話が自然に始まった。
 「ぼくらは長年あの原発で働いてきたし、安全管理についてはそれは厳格に教育されてきたし注意しています。たしかに事故にはなったが、誰かがやらなきゃならない。今までやってきた僕らがいちばんここをよく知っているんだから」
 Yさんは淡々と語りだした。
 「最初の地震が来た時に、ぼくは原発の4階の事務所にいたんです。すごい揺れのあとに、すぐに、これは大きな津波が来るぞと思いました。なにしろ作業用の港湾内の底が見えたくらいでしたから。その後の原発構内の動きについてはいっぱい本になって出ました。残った者も、逃げた者も。私の部署ですか。協力会社といわれる下請けの会社に入社して30年ここで働いて来た。爆発のあとの構内の乱雑さったらなかった。何千人もの作業員が一斉に車で逃げた。地元の町民より情報が早いから。いっぱい構内に車が乗り捨てられていたのが、構内作業の邪魔になっていた。自家用車にはみんな所有権があるでしょ。だから動かすにもいちいち所有者本人の了解をもらわなきゃあならないんです。駐車場まで移動させるにも、逃げた先に電話をかけて了解を貰うか、一度戻って来て自分で駐車場まで移動しろと。駐車場に停めるにもカギをつけたままにしろと。そういう手間が、ひどくかかるんです。ぼくは建屋の中の機械の担当じゃないから。ええ。新聞とか雑誌とかテレビラジオの記者から、たくさんインタビューの申し込みがありましたけど、2、3人には応じましたが、彼等が望むような面白い話はしませんでした。深夜過ぎてまでねばっていましたが、ただ延々と自分がやった仕事を言っただけです。」
 劇的なことはなかったし、いつもやってきた作業をやっただけだった。誇ることもなければ、これが自分の生活なんだから。
 その後、1F(イチエフ)と呼ばれる福島第1原子力発電所が、一つの主題として扱われ、週刊誌にも単行本にも「フクシマ50」という名の国家的緊急時に残った名もなき作業員ヒーローについての物語が漫画になり、テレビ番組で放送され称賛され、劇中人物のように脚光を浴びた。本を書くために原発作業員にもぐりこむ者まで現れた。
 Yさんとは直接会って話を聞きたいとは思ったが、聞いてどうなるものでもない。元気でやっているのを確認できただけで満足した。
 その彼は、2年ほどして福島市内の勤務に転勤になり、除染の指導などにあたっていた。忙しい時間のあいまに私の福島聖書教会の日曜礼拝に出て来て、簡単なあいさつをした。
 浜通りで一緒の教会で礼拝をしていた仲間の何人かが避難して借り家に住んでいるものもいる。クリスチャンにとってイエスの名前によって集まるなら、そこが神の家だ。浜通りであろうと、避難先の福島であろうと。
 でも放射線量は、たぶん原発に距離が近くとも海辺の相馬双葉のほうが、はるかに福島市よりも低いはずだ。
 24年ちかく以前のオーストラリア人高校生を一緒にホームステイさせた頃の、小高の村上浜でキャンプを兼ねたホストファミリーとのバーベキュー歓迎会や、原発視察のバスツアーの思い出のほうが、ぼくらにとっては豪州少年少女たちとの就学旅行の充実した強烈な実感なのだ。いまの出来事のほうが、夢のようなはるかに淡い体験のように感じる。

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