「最初の地震が来た時に、ぼくは原発の4階の事務所にいたんです。すごい揺れのあとに、すぐに、これは大きな津波が来るぞと思いました。なにしろ作業用の港湾内の底が見えたくらいでしたから。その後の原発構内の動きについてはいっぱい本になって出ました。残った者も、逃げた者も。
私の部署ですか。協力会社といわれる下請けの会社に入社して30年ここで働いて来ました。爆発のあとの構内の乱雑さったらなかった。何千人もの作業員が一斉に車で逃げました。地元の町民より情報が早いから。
いっぱい構内に車が乗り捨てられていたのが、構内作業の邪魔になっていた。自家用車にはみんな所有権があるでしょ。だから動かすにもいちいち所有者本人の了解をもらわなきゃあならないんです。駐車場まで移動させるにも、逃げた先に電話をかけて了解を貰うか、一度戻って来て自分で駐車場まで移動しろと。駐車場に停めるにもカギをつけたままにしろと。そういう手間が、ひどくかかるんです。ぼくは建屋の中の機械の担当じゃないから。
――—マスコミからのアプローチがたくさんあったでしょ。
ええ。新聞とか雑誌とかテレビラジオの記者から、たくさんインタビューの申し込みがありましたけど、2、3人には応じましたが、彼等が望むような面白い話はしませんでした。深夜過ぎてまでねばっていましたが、ただ延々と自分がやった仕事を言っただけです。」
劇的なことはなかったし、いつもやってきた作業をやっただけだった。誇ることもなければ、これが自分の生活なんだから。
その後、1エフと呼ばれる福島第1原子力発電所が、一つの主題として扱われ、週刊誌にも単行本にも「フクシマ50」という名の緊急時の残った名もなき作業員ヒーローについての物語が漫画になり、テレビ番組で放送され称賛され、劇中人物のように、脚光を浴びた。
本を書くために原発作業員にもぐりこむ者まで現れた。
Yさんとは直接会って話を聞きたいとは思ったが、聞いてどうなるものでもない。元気でやっているのを確認できただけで満足した。
その彼とは、2年ほどして、福島市に転勤になり、除染の指導などにあたっていた。忙しい時間のあいまに、私の福島聖書教会の日曜礼拝に出て来て、簡単なあいさつをした。
浜通りで一緒の教会で礼拝をしていた仲間の何人かが、避難して借り家に住んでいるものもいる。クリスチャンにとってイエスの名前によって集まるなら、そこが神の家だ。浜通りであろうと、避難先の福島であろうと。
でも放射線量は、たぶん原発に距離が近くとも海辺の相馬双葉のほうが、はるかに福島市よりも低いはずだ。
20年ちかく以前のオーストラリア人高校生を一緒にホームステイさせた頃の、小高の村上浜でキャンプを兼ねたホストファミリーとのバーベキュー歓迎会や、原発視察のバスツアーの思い出のほうが、ぼくらにとっては強烈な思い出なのだ。いまの出来事のほうが、はるかに夢のような淡い体験のように感じる。