南相馬の最後のバスは何処に行ったのか?
山形・群馬・新潟に囲まれて311で助けられた福島県民

@酒田・鶴岡で思った原発のない幸い
戊辰戦争では福島市にあった板倉藩は、南境の二本松が官軍に陥落すとの急報を受けるやいなや藩主一家は腰元を連れて米沢藩に避難。これに気づいた家臣全部が夕刻までに城を明け渡してこれを追って遁走した故事がある。
歴史は繰り返す。今般の事故では、瀬戸福島市長が家族を連れてさっと米沢へ緊急避難し、一ヶ月市役所に姿を見せなかったとの噂が流れ、のちの市長選挙で新人候補小林香氏に惨敗した。さもありなん。
突然と思われた3・11震災・巨大津波と原発事故で、福島県浜通りの故郷相馬地方も在住の福島市からも、多くの親類知人友人が一斉に会津、新潟、山形へと救いを求めて逃げ出した。
戦国時代には南相馬市小高区に首府を置いた相馬藩は、米沢藩の伊達政宗と戦ったほど国境を接した隣国だったが、時代が変われば真っ先に避難先に選ぶのだから人間の行動は勝手なものだ。
どうも福島県人は困ったときには山形県を頼るDNAがあるようだ。
快適な海岸を有し、例年海水浴が当然の既得権だった我が家では、2011年の夏、いつも海水浴している故郷の津浪の印象強い海を避け、原発事故の放射能を避けて初めて日本海に出向いて湯の浜温泉に泊まって、日頃の憂さを忘れて酒田・鶴岡の本間家旧邸・藤沢周平記念館などを周遊観光した。
現地で、鶴岡にも原発建設計画があったが、あの見事な松林を守ろうとの自然保護運動を中心に立地反対し、立派に原発のない県として自立発展していると聞き、原発に依存した県の財政や安全対策の脆弱さを反省させられた。財政の貧しさから原発を選んだとわが県民はいうが、貧しいのは財政でなく故郷への誇りと自然を守る精神であろう。
わが福島県人を暖かく迎えて雨の日の傘になってくれた山形県人に深謝し、原発の無い幸いを痛感したものだ。

@困ったら米沢に逃げろ、という福島人のDNA
山形県には、福島県から県内外へ流出した311被災民14万人のうち最大多数の1万2000余名(2月現在で4009人)を引き受けて貰っている。
津波で家を失ったり原発事故から逃れた私の従姉妹たちも、山形県米沢市にお世話になった。一県民として心から御礼申し上げる。
吉里吉里国で有名な井上ひさしの出身地、小さな町川西町にも被災者がお世話になっていると聞いた。同町にはかつて福島県南相馬市で活躍した淀秀夫氏という畏友がいる。かつて南相馬原町の通信部にNHK記者として赴任し、南の双葉地方の福島第一原発も守備範囲としてリアルタイムで取材し放映し、大学生だった私もアルバイトで照明器や録音機を運び手伝った。足の取材を身をもって教えられた。
あの頃のNHKは、大都市いわきの放送局ではなく、田舎の原町通信部の記者が原発すべてをフォローする体制で、相対的に重要度が低かった。
労働者被曝など原発の内情を「これでも原発は安全か」(1)などのタイトルで言論雑誌に、淀氏は川上健次郎という筆名で警鐘を鳴らしていた。同郷の川上恭生というフジテレビの記者から「川上」を、和田健次郎というこれも同郷のコピーライターで「ゆっくり走ろう」という自動車CMキャッチフレーズを生んだ人物から「健次郎」を貰ったとか。故郷に誇りを持つ仕事が印象的だった。
地域に根差したまなざしと地方テレビ記者の愛着や取材の要領や、手順やジャーナリストとしての矜持や責任感まで、無言の後ろ姿で教えてもらった。

@原発批判はタブーだった地元福島県
わが福島県の県都福島市県庁でも浜通りの地元はもちろん、言うまでもなく原発地帯でも原発批判は長くタブーだった。浜通り一帯が津波で荒廃し放射能汚染地区は立入り禁止になっている。国や東電は、自殺者まで出す福島県の状況に追い込んでいるが、どしゃぶりの雨の日に、誰が傘を貸してくれるのか。淀氏の洞察力を今更に感服しつつ、隣県の情けのありがたさを痛感している。
私は福島市在住なので、津波と原発爆発事故から最初の一か月間、福島市長の姿が市役所に見えなくなったという噂は、それこそ燎原の火の如く立ち上って渦巻いていた。役所の教育委員会の上のほうの職員がまことしやかに言ったという風聞を耳にしながら、かつて戊辰戦争のときに西軍が二本松城を攻め落とした時に、急報の伝令がいまの県庁のある福島城に届いて福島藩主である家康以来の幕閣の血筋の殿さま板倉様と奥方と家族その腰元たちが、まず北隣の米沢藩に昼までに避難し、夕方には家来衆すべてが城から姿を消していたという伝承を思い出していた。さもありなん。隣県とはいえ、車で40分ほどで通勤している職員もざらにいて、放射能雲(プルーム)を遮る栗子峠の山陰の米沢市は、近くは直江兼続で知名度を上げ上杉鷹山ゆかりの人情豊かな伝統的な会津若松によく似た文化小邑である。

@草津で薬剤師・片品村の温泉村に助けられた群馬県
三月十六日の福島第一原発爆発直後の恐慌状態で、南相馬市から行方も知らされずに十六台のバスが四方八方に出発した。南25キロ地点の原発から放出された放射能汚染を逃れるために、最後の脱出バスが出ると知らされ、市民は着の身着のままで恐怖のうちにバスに乗り込んだ。
夜間に混乱する町々を通り、このうち230人が草津温泉へと連れて行かれた。七月の連休にその道をたどって、群馬へ逃れた人々の足取りを訪ねて現地まで出向いてみた。群馬県内から8人の薬剤師が草津に緊急派遣され、被災者一人ひとりから常備薬の有無を確認し、入手できる薬局を紹介するなど、めざましい活動を展開してくれた事実を知ったからだ。
緊急事態で、常用する薬を持って出るのも困難だった。私の叔母も母も地震で引き出しが空けられず、常備薬を持たぬままに避難した。
私の住む福島市でも医療現場はパニックで南相馬市からの被災者は「放射能を検査したか」と診察さえ拒否されたのが実態だった。それに比べて、草津での対応は、地獄で仏だった。翌2012年の家族の小旅行で、どこに行くよりも「まず群馬へ」と思った。草津市民と薬剤師協会に心から感謝申し上げる。

@人口五千の村が、千の避難者を受け入れてくれた群馬県片品村。
3・11から一年たって、南相馬市の自宅に帰ってきた友人たちから、避難中の苦難を聞いた。原発建屋の水素爆発直後に、風評被害のため物流がストップ。恐怖のどん底で食糧も水も絶たれた市民は仕方なく脱出した。姉妹都市の世田谷区が大型バスを手配してくれた最後の便で、行方も分らずに着の身着のまま飛び乗った。着いたところが小千谷市と片品村だった。あたたかいもてなしに、どれほど助けられたことかと。テレビでは三陸の被災者が、寒さに震えておにぎり一個で救援を待つ姿を映していた。
隣同士の県がこれほど身近になったことは、歴史上初めてのこと。しかも、東電・国・県からさえも、電話一本の警告通知もなく、多くの自主避難者はあてどなく何箇所も断られて放浪した。
世界中が驚いたのは、これほどの災害にもかかわらず助け合って整然と救援を待っている姿だった。こうした義侠心と決断と実行力こそ、その評価のシンボルだと思う。

@南相馬の最後のバスは何処に行ったか?
実は「最後のバス」は一台だけでなく、何台も並んで、南相馬市民は現場で振り分けられた。どこへ連れてゆかれるかさえ知らずに。不安だったし予定も立たぬ。着の身着のままの命からがらだった。
結果として原町は大丈夫だったが、「最後のバス」はベトナム戦争の末期に南ベトナムからアメリカ空母に避難したヘリと真情ではだった。
さてお互い様の精神で、助けられた南相馬人はどこまで次の災害で他県の被災者を支援し受け入れることができるか。日本人の徳と品性があるかどうか。
7月の連休にその道をたどって、群馬へ逃れた人々の足取りを訪ねて現地まで出向いてみた。群馬県内から5人の薬剤師が草津に緊急派遣され、被災者一人ひとりから常備薬の有無を確認し、入手できる薬局を紹介するなど、めざましい活動を展開してくれた事実を知ったからだ。
緊急事態で、常用する薬を持って出るのも困難だった。私の叔母​も母も地震で引き出しが空けられず、常備薬を持たぬままに避難した。
私の住む福島市は県庁所在地で、知事のお膝元。災害対策本部も原発事故対処の本部もあるから情報もあると思われたが、むしろ逆で水道が破壊されて使用されず放射能検査に無知で医療現場はパニックだった。薬局でも病院でも市外から流入した被災者は診察さえ拒否された。それに比べて草津での対応は篤志の薬剤師が被災者に直接聞いて、常備薬の手配をしてくれた。
南相馬からの被災者は「放射能を検査したか」と診察さえ拒否されたのが実態だった。
​草津での対応は地獄で仏だった。家族の小旅行で何処に行くよりも「まず群馬へ」と思った。草津市民と薬剤師協会に心から感謝申し上げる。

@草津で薬剤師に救われた南相馬の被災者
群馬県は遠かった。7月14~15日の両日、家族で小旅行訪問。あの3月15日の二度目の原発爆発直後の恐慌状態で、南相馬市から行方も知らされずに16台のバスが四方八方に出発した。市役所の広報車が地震の第一波の衝撃で防災無線も使えない状況で、南25キロ地点の原発から放出された放射能汚染から逃れるために「最後の脱出バスが出る」との予告を街宣して回り、小学校に集まった市民は着の身着のままで恐怖のうちにバスに乗り込んだ。東北自動車道は自衛隊、警察、救急車などの災害緊急車両だけに通行許可され民間人はシャットアウト。在来の道路を夜間に混乱する町々を縫って、最後の目的地まで辿っていった。
このうち260人が草津温泉へと連れて行かれた。その道をたどって群馬へ逃れた人々の足取りを訪ねて現地まで出向いた。
隣の沢渡温泉病院には南相馬生まれの親友が入院していたので、見舞いをかねて向った。
彼高野光雄はブラジル帰り。大泉町でブラジル人労働者と群馬を繋ぐ日伯学園を経営。私のデスクトップパソコンが壊れて動かなくなってしまい速達で急報したら彼はセカンド・ハーベスト事業で企業から新古廃棄処分の在庫パソコンのストックを郵送してくれた。届いたのが実に3.11の当日午前。それがぼくの奇跡の命の情報のマシンだった。
日伯学園は地震津波の直後に故郷福島県浜通りの津波被災者に3000着の運動着を2トントラックで送ってくれた。
2011年3月のあの夜、真っ暗な山道を揺られてわが故郷の被災者たちがどれほど不安な気持ちでバスに乗っていたことか。到着してからも先行きも知らぬ身の上で命にかかわる薬を持っていない状態のところに、専門の薬剤師が膝を詰めて尋ねてくれた。それがどれほど彼らを救ったことか。
政府事故調査報告が発表されたが、国と東電の判断に大鉈を振るっただけで、被災者個々人の恐怖までは解明しえぬ。草津でのエピソードのほうが私には魂に触れる救援だと思われるのだ。
2011年3月28日 読売新聞によると、東日本巨大地震で被災した福島県南相馬市から約260人の避難者を受け入れている草津町で26、27日、県内の薬剤師5人が持病を抱えた避難者を問診し、必要な薬の種類や処方の緊急性を見極めるボランティア活動を行った。
高齢者の中には薬を5日間も服用できなかったり、薬が切れた場合には危険な症状に陥る恐れがあったりするケースも見られ、近隣の開業医に緊急で処方してもらうなどの対応に追われた。
そのうちの1人八木さんは、一人ずつ問診票に避難者が服用していた薬の名前や種類、現在の容態や過去の病歴を書き込み、薬が手に入る近隣の開業医を紹介した。
26日午後2時、草津町内の避難者の宿泊先のペンションでは、訪問した薬剤師八木美之さん(37)を4人の避難者が取り囲んだ。「血圧の薬が切れちゃって」「下剤が欲しいけど手に入らない」などと矢継ぎ早に助けを求める声が飛んだ。
町内のペンションに避難してきた南相馬市の主婦石川ミツ子さん(80)は「血圧の薬を常用しておりどうしようか困っていた。薬の手配のお手伝いをしてくれるなんて感謝の気持ちでいっぱい」とホッとした様子だった。
災害時は薬剤師が取り囲まれることもあるのだなと。
病院薬剤師は手持ちの薬がなく、そういう時は使えない。勝手に持ち出せないし自分の開局している薬局なら壊れていない限り仕事が出来る。
薬局で薬を事前に渡し後で処方を書いてもらう、とりあえず貸してあげる、知り合いの開業医に連れていく。一般には売っていない血糖降下剤、血圧降下剤などは緊急を要する。もしくは一般の薬すら買えない状況ならばなおさらのこと。
薬剤師は逃げる時、衣食の他にちょっとした薬も持って逃げないといけないのかもしれない。 患者ごとに避難用バックに必ず入れておくことを説く必要がある。
足りなくなった医薬品は風邪薬・胃腸薬・降圧剤・高脂血症剤・消毒液。ばんそうこう・マスク・生理用品・コンタクト用品・石鹸・シャンプーだそうである。その他日常品としては紙類・タオル・バケツ・雑巾・手袋・懐中電灯・ラジオ・ブルーシート・紙コップなどであったそうだ。
わたしが真っ先に買ったのは、教会の仲間にわたすための紙おむつだった。

@義の国新潟県、国内移民が相馬にやってきた足取り
福島県浜通り相馬地方は、西に原発事故で全村避難を余儀なくされた飯舘、北は駅舎と電車ごと津波に飲まれた新地、南は放射線量が高い浪江、福島第一原発の立地地大熊までを版図とする旧中村藩を支配する中世相馬氏の旧領である。
相馬野馬追という騎馬行列を誇る七百年の歴史があるが、天明天保の大飢饉で農民が絶滅し、宗教的戒律で子殺しを禁じた越中越後の北陸等から真宗僧の手引きで人口過剰となった門徒が、夜陰に鍋釜一つで、働く者に信仰の自由と土地を与えるとの誘致に応じた。古来相馬には貧農層に子殺しの風習があった。幕府の百姓法度の禁を犯して、新しい天地を目指したのだ。相馬藩復興には移民が欠かせなかった。
近代になっても新潟からの移住は続き、相馬地方の真ん中にある南相馬市を見渡せば、名物写真屋さん、古い自転車店主人などが新潟県人会の顔ぶれだ。ブラジルに渡って商業で成功し、戦後戦災者に支援物資を送り続けた偉人菅山鷲造も新潟からの移住者二世である。
相馬移民のルーツを訪ねて、手をつなぎあう親子づれの先祖の姿を夢想しつつ、かつて移民が通った親知らず子知らずの狭い海辺の現場に立った時には、感慨深かった。
@国も東電も県知事も電話ひとつ寄越さなかった
わが南相馬市から大量の避難民を引き受けてくれた新潟県は、原発の東電も国も福島県も連絡をよこさぬうちから泉田知事自身が南相馬市長に直接電話してきて「南相馬の被災者を全員新潟県でひきうけます」と申し出た。首相よりも福島県知事よりも、泉田新潟知事にこそ信頼と恩義を感ずるのはその言葉と実による。
実際に新潟日報では南相馬市からの被災者の暮らしに寄り添った報道をしており、福島の地元紙への転載で日報記事を読んでいる。役所の末端組織まで「被災者証明など必要なし」との周知徹底ぶりであることをネットで知り合った新潟人から聞いた。
上杉謙信は「義」の旗を掲げて、関東管領として自領からはなれた土地まで損得を超越して戦い、領土的野望をつつしみ、戦闘相手で海のない甲斐の武田には生活必需品の塩を送って、戦略を度外視した。いままた遠く相馬の地から、いちはやく原発事故の被災者まで救援した。
歴史は過ぎるが人間の名は残る。大きな艱難は人を篩にかける。
軽い籾は風に飛ばされ、重い実は落ちる。ずしりとわが魂に落ちて、感涙千金の粒となる。
多くの友人を津波で亡くして泣き、国県東電の対応に憤激して泣き、いま南相馬市長の報告を読んで、新潟県の恩情に泣く。
新潟は震災の痛みを知る県である。いのちの尊さを真に知る県である。国にも県にも見放されていた時に、救いの手を差し伸べてくれ、ずっと支えている新潟県に心からの感謝と賛嘆の声を上げる。
日本国中の土地に同胞が避難した。これを受けいれてくれている県、市町村、住民にも感謝する。復興の日に、わたしは必ずや新潟の恩情を子々孫々にまで語り伝える所存である。

@三条市の希望の町明かり
避難先の新潟から帰郷した人から聞いて少しずつ新潟での様子が見えてきた。最近では帰ってくる人もあれば、流出してゆく人もある。まだ混乱は続いている。
あの3月16日、二度の水素爆発の直後に混乱の中で指示されて市民文化会館に集められた人々は、行方も知らずに手荷物だけで6台のバスに乗り合わせ午後4時出発した。雪片の舞い散る国道49号線を西へ。三条市総合福祉センターに着いたのは午後11時過ぎ。深夜にもかかわらず市長はじめ職員、ボランテイアの方々が待っていてくれたという。
食事と毛布、なにより熱い風呂に入れてやっと生きた心地がした。「三条市の明かりが見えた時、生きる希望のともし火だと思った」という老婦人の話に涙がこぼれてきた。​
いま南相馬市では家族と離れ離れの将来を悲観して自殺者が続出している。帰還しても自宅や仮設住宅の高齢者が孤立死が相次いでいる。人は賠償金や食糧だけで生きられるわけではない。放射能に土地を奪われた人もいるが、暖かい心と希望がなければ生きられない。いまも新潟には同郷者がお世話になっている。フェイスブックで新潟の人々と連絡しつつ、献身的な新潟県の温情で、第二の故郷のような郷愁に似た感慨を抱きながら想像の中の三条市の町明かりに希望の灯を感じている。

@良寛さんの新潟 三条、小千谷を訪問
311から3年目の2013年には新潟県を家族旅行した。
若くして公務につき民衆の世話する義務を果たし、余生は人嫌い権威嫌いの世捨て人として晩年は山に籠もり自然と子供とともに遊び、美に平伏して自己の弱さをみつめて生きた良寛さん。1828年の三条大震で現地を踏んだ71歳の良寛さんは、友人からの地震見舞いに「災難に逢、時節には災難に逢がよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候」と達観した返事をしているが「かにかくに止まらぬものは涙なり人の見る目も忍ぶばかりに」とも詠っている。
地震津波と原発事故の放射能から緊急避難して三条市に迎え入れていただいた同郷南相馬の婦人はガソリンも食料もなく「市を脱出する最後のバスが、雪の舞い散る会津の山道を通り、6時間かけて三条の町あかりを見たときにはこれでやっと命が助かったと思った」と語っていたが、地震対策教育の先進地を見習うべくこの夏休みに我が一家は先ず三条市を、次いで小千谷市を訪問した。
10年前の中越地震の実態を、中越メモリアル回廊や「そなえ館」で追体験させていただき、何故にあんなにも親身になって新潟県人が世話してくれたのか深く理解した。死者を出したマルチスクリーンに映し出された残骸の写真パネルに囲まれながら震度7のシミュレーション体験のできる椅子に座って中越地震の追体験を体感し、「3時間後」「3日後」「3ヶ月後」「3年後」という異なる局面を復興ビジョンの展示室に多くを学んだ。
若い女子説明員は「知事が力を入れてこの施設を作ったんです」と誇らしく語った。柏崎刈羽原発をひかえた新潟とは震災という悲しみと次の災害への不安を共有しながらも、あの雄大な信濃の国を南相馬人は第二故郷とも感じて敬意と追慕で見ている。
今般、福島県人が世話になった分を「恩返しなら、今度はどこかのために福島県が」と新潟の誰もが語ってくださった。隣県の義に謝し、そのこころざしを引き継ぎわが郷里の未来に活かし伝えたい。
いままたネパールで不意の大地震で無慮数千の犠牲者を出している。
地球すべてが隣人となった今日、災害救助は他人ごとではいられない。

原注(1)川上健次郎(本名は淀秀夫。当時はNHK原町支局記者。現山形県川西町町議)「これでも原発は安全か」は「マスコミ市民」112号(1977年3月1日発行)に掲載。発行所、日本マスコミ市民会議。

(初出:『ゲンロン観光通信 #2』2015年7月10日号)

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