「1」1,214人の証言(川上による抜粋)
1)3.11直後にあった事
・ 爆発する音が聞こえた。(南相馬市)
・ 爆発時に権利のような雲のようなものが見えた。(飯舘村)
・ 畑にいた人は長靴のままで避難した。 ・ストーブで魚焼いていたので、そのままで緊急避難した。 ・サンダル履で小学校の体育館に避難した。
・ 理由は教えてもらえず、避難した。地震で避難とはおかしいなと思った。
・ 津波の後だったので「とにかく高い方、山の方へ逃げよう」と考えた。
・ 理由は告げられず「体育館に集まれ」と言われ、着の身着のままで集合した。そこからバスに乗せられ連れて行かれた。運転手に「どこに行くのか?」と尋ねたが「分からない」だった。
・ 避難先は自分で決めた人もいたが、車のガソリンがなくて、バスで集団避難しなければならなかった。
・ 最初は町内の体育館、次に津島、その次が飯舘村へ逃げた。汚染された(線量の高い)所に逃げた。
・ たまたま原町の病院に夫が入院していた。自分(妻)は付き添いしていた。家は海から数十メートルにあり、津波で近所の人は流された。友達が皆死んでいなくなってしまった。2日目には原発が爆発した。
・ 津島まで逃げたが、渋滞で4時間掛かった。その間に被曝した。3月14日の夜、村長指示で全村民を対象に村から避難した。「他の号機も爆発するかも知れない。空振りだったら私が精人をとる。夜は酒を飲まずに待機するように」ということだった。(葛尾村)
・ 浪江から飯舘村に逃げてきた人は、みんな津波被害者だと思っていた。村をあげてお世話をした。しばらくして浪江の人は理由を語らずに全員が去った。(飯舘村)
・ 3月14日までの3日間は、114号線上で、車中生活をした。
・ 3.14にみぞれが降った。何かを燃やしたような臭いがした。原発の爆発だと知らされたのはそれから一週間後だった。(飯舘村)
・ 浪江・大熊から逃げてきた人のために3日間炊き出しをした。その後、本当は逃げなければならなかったが。(飯舘村)
・ 消防も無線の電池が切れて、情報を持っていなかった。
・ 障がい者の兄がいたので皆さんと一緒に手配されたバスには乗ることができなかった。
・ 「もう年だから、死んでもいい。どこにも行かない」と言ったのだが連れ出された。
・ 原町の病院からは強制退院させられた。薬は「避難先でもらって」と2日分しか処方されなかった。
・ 孫が9人いたがミルク・オムツがなくて本当に困った。
・ 米を紙コップに入れ水と塩を加えて蒸してご飯にして提供した。
・ おにぎりを半分に分けて食べた。
・ 水の配給は一日1人当たり紙コップ半分だった。薬を飲むので無くなった。
・ 津島では「家族でおにぎり一個」だった。
・ 大東亜戦争当時も食べ物がなかった。ひどい体験を2回した。(昭和6年生まれの人)
・ (3.11の2か月後の全村避難の前に)自主避難した人は勇気があったと思う(飯舘村)。

2)生活の破壊・家族の分断
・ 爆発前は4世代が一緒に暮らしていたが今は4か所に分散している。
・ 飯舘村は1600世帯だったが分散して3000世帯に増えた。
・ 子ども家族は福島を出て東京に行った。読んでも線量が高いということで帰ってきてくれない。こちらから出かけてゆくしかない。
・ 浪江の女性が「放射能汚染」を問題視され縁談が破談になったことこはしょっちゅう聞く。
・ 離婚が多い。大家族が分散したためとストレス・原発被曝に対する考えの違いなど。
・ 全部無くした。息子一家も離れたところで暮らしている。毎日テレビのお守りをしているような生活がたまらない。
・ 5町歩の田圃をやっていた。もう稲作の意欲は失せた。
・ 借り上げ住宅に住む人の様子を見に行ったら「来ないで欲しい」と言われた。「原発避難者だと知られると周りから白い目で見られるから」と。
・ ここでは何もすることがない。それが一番たいへんだ。夢も希望もない人生になってしまった。
・ 時々精神がおかしくなったのではないかと思うことがある。
・ ストレスで太ってしまった人が多い。
・ この先どうなるか不安。(多数)
・ 住まいに置いた乗用車は被曝しているので高級車でも5万円の値段しかつかなった。
・ 今死んでも「遺影」にする写真が残っていない。
・ 仕事をなくしたので給料のよい除染の仕事をしようと思った。「現場は人の入れ替わりが激しい」と言われて止めた。
・ 補償金のことで)小高の人はいいな」と言われる。全部失ったのに。
・ この年になってからこんな目に遭うとは思ってもいなかった。

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