島尾敏雄は、青春の地であり決定的な体験の現場を十年後に再び訪れてあせっている。そのあせりが、ぎゅっと心臓をしめつける。忘れてしまっていた遠い記憶が、今日の前に鮮やかに甦る。「今こうして現にN浦に来たこと」が「なかなかに信じられない」といいながら、心はすでに十年前の状況の中へずるずるとひきずりこまれてゆくではないか。そういう心の動揺が伝わってくる。
 「半円の空虚を抱いた洞窟の入口の弧が私の網膜に焼きついたときに、十年の歳月がふとかき消え、私は今もなおあのときのいつものように、Sの防備隊からの帰り道だという気分がせつなく湧きあがった。ほとんど気まぐれに近づいてくる死を待って、一日一日を送っていた場所が、そこに消滅しないで位置を占めている。それは疑えない。確かすぎて不満なほどだ。むしろそこで私と違ったもう一人の私が、今も相変わらず死の特攻出撃の命令を待って、朝夕を送っているのではないか。」
 ととえば島尾は、自分が刻々と迫る死を目の前にしながら生活していた棺桶のような洞窟の基地が、十年間記憶の中で幻であったような曖昧なものであって欲しいという、願望に似た不可能な気持ちを抱いていた。それが、あまりにもはっきりとそのままの形で残っていた。
 そのことに対して不可能な不満を感ずる。すなわち、勝手に期待していた気持ちが、現実の前でしぼんでしまったのだ。
 それでは島尾は、十年前に崩されてしまった基地を想定していたのだろうか。

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