このような青春の日への回想が、いきなり十年前の気違い女の記憶をはさみながら出されてくる。「ひとりの島の男が気ちがい女をつれて歩いていたことを思い出」しながら、彼はそれらに日々を想起する。十年後、主人公は「精神病院から出てきたばかりの妻ケサナと一緒に」島へ来たのである。主人公は思う。
 「私は彼らをじろじろ見ないで通りすぎた方がよいのだと思った。しかしほんとうのところは、彼らにくっついて行って、その気ちがい女をよく見たかった。そのとき私に女の男に羨望さえ感じた。」
 これは、十年間の、また別な島尾の極限体験である妻の精神病の発作との戦いをふまえている。この辺りが「廃址」を読むうえでの、いちばん興味深い点であろう。そして、「彼らの方には生活がこぼれるほどつまっている。私には生活がひとかけらもない。そう私は思った。生活を経験しないまま、誰かと死の契約をしてしまった。するとそのときから、私は自分の若さに輝きを増してきたことを覚えた。しかもその契約を破棄することは絶対にできないのだと思い込んだまま。」
 (中略)
「私の目には一切の生長が空しく写った。しかも私の青春はぐんぐんふくれあがった。」
 (一行おいて)
「女がくすっと笑ったので、私はその女の顔を見た。」
 この辺の、行の飛躍、筆の運びは絶妙と思われる。まるで詩の呼吸で島尾は書いている。店舗が軽妙で、リズミカルである。すなわち、全体に一つの自律的な内部からの律動感があるのだ。このことは、文章を支えている創作時の筆者の精神が、きわめて美的な緊張の状態にあったと考えられる。(島尾自身も内部の快いリズムに従って書いた作品は後々まで満足できる、と書いている)

 感情の複雑なもつれ、気持ちの混乱と前に書いた。しかし、こんがらがっているのではなく、はりつめているのだ。どこを触っても、たちまち崩れそうな硝子細工の如き、繊細な文章によって構築されている。ある種の感動を秘めた一片の詩であると言えなくもない。
 それは過ぎ去ってしまった青春の日々への息苦しく甘ったるい感傷である。そしてまた、その青春とは、死を覚悟し、死を当然の運命として受けとめている日々であった。その運命的な青春の日々のなかで、運命じしんによって彼はほんろうされつづけ、ためされつづけ、しかもそのあげくに彼は彼が信じ込んでいた自分の人生の流れの根底からくつがえされて、ついに死の一歩手前で、もう一度生きろという宿命につきはなされたのである。
 むごたらしく、そしてみじめな気持ちで、彼は敗戦をむかえ、それが彼の青春の最大の事件であった。彼はその事件の体験を「わがままな」と表現する。
 「戦争のあいだじゅう、そこで営まれた死の準備はわがままな虚構であったと言える、そこでは古代ばかりがかりそめに展開した。だが敗戦の後、都会の中でK…島は現実から益々遠のいた。K…島での日々のことはすべておとぎ話になり、記憶の中の島のひとびとは標本棚に陳列した化石と変わらない。私は彼らを遠い歴史の中のひとびとのことか又は残りの生涯の間ではおそらく会うことのない未知の国のひとびとについての、概括記事を説明する口つきで語っていた。」
 あるいは島尾は、最初の作品である「島の果て」を書こうとした時、すでに前述のような意識のとおり「K…島でのことはすべておとぎ話」なのだ、という認識を持ちながら、それに従ったままおとぎ話のように書いたのかも知れない。それは創作にあたっての素朴な態度のあらわしかたであるけれども案外そのとおりなのかも知れない。とにかく十年後の島尾には、そのような意識があって心の痛みを感じながら、廃址となったケサナの部落を訪れたのだ。
 「しかし今こうして現にN浦に来たことはなかなかに信じられない。それは信じられない、というのもほんとうのところはちがう。大きなてのひらを持った「あせり」に、ぎゅっと心臓をつかまれたようだ。」
 うまい表現だ。

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