私自身は原発の受け入れには反対である。95年以後、阪神大震災以後は、「お前が浜の出身だから原発のことはお前が担当しろ」と社長が、理由のない理由で外部からの助っ人の書き手のわたしに何度か原発の記事を書かせた。
 雑誌「月刊政経東北」に、終始批判的な立場と意見で県の財政政策について論評してきた。しかし、原発という施設を実見する貴重な機会は逃したくない。原発にさえ行きたくないのに、その隣にある県の漁業栽培センターの探訪レポートまで命じられて書いたりしていた。原発記事でないレポートまで大熊町に出張するのは、しょうじき嫌だった。双葉地方に足を入れる仕事は、できることなら敬遠したいと思った。自分がそこにいる間に原発事故が起きるなんて、とても最悪のシチュエ―ションだった。
 あくまで故郷の歴史に寄り添って、産業と財政のゆくすえを観察する記録者としてだけかかわりたいのだ。
 そのYさんが原発に残って働いている、と聞いてはいた。
原発から30キロ圏の原町南相馬も、原発経済の一部で共存しているといえる。おおくの職員が、事故のあとも、かわらず南へ通ってやるべき仕事をしている。
 原町の実家の老いた母を訪問するたびに、福音教会の礼拝に出た。Y氏の信仰熱心な奥さんが来ている。彼女から間接的にY氏の近況を聞く。最近はずいぶんやつれた、という。1エフでは、ゆっくりは休めないらしい。家庭に帰ってこれるのは一か月に一度だという。
 私が原町まで行くのは土曜日曜だけだ。国家の一大事で、懸命な重要な仕事に携わっているというYさんに関しては、彼が働く環境が守られて体をこわさないで、せめてきちんと眠れますように、と祈るだけだった。
 そうこうして原町行きの何度目かに、Yさん宅を訪問した折にYさんが運よく帰宅していた。「ああ、二上さん。久しぶり」たしかに、ずいぶんYさんは痩せた。
 311から以後の、凝縮した体験を、いろんな知人や友人から聞いているが、くだんの原発の現場で働いている彼じしんから聞く機会はめったにない。
 「大変ですね」と、ごくありきたりの挨拶でYさんとの会話つまり自然に壊れた原子炉のすぐそばで働く男の話が始まった。
 「ぼくらは長年、あの原発で働いてきたし、安全管理については、それは厳格に教育されてきたし、注意しています。たしかに事故にはなったが、誰かがやらなきゃならない。今までやってきた僕らがいちばん、ここをよく知っているんだから」
 Yさんは淡々と語りだした。

フクシマ50 Fukushima50

 

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