フクシマ50 Fukushima50

PHP出版から、門田陸将の「原発事故に立ち向かった」吉田昌郎福島フィフテイ」という本と、「死の淵を見た男』吉田昌郎と福島第一原発の5000日」という」本を原町の大内書店で買ってきた。
 主人の大内君は原町高校の後輩だし、まじめな青年なので、本を買って激励してやりたい。それで大内さんから買ったのだが、彼の父親は原町第二中学校に在学中に、技術家庭科の担当教諭であったため、彼の父親の私は教え子にあたるので、二重に御縁のかさなる他人である。
 さらには、ぼくの著作のすべてをこの大内書店で原町市時代の市民に打ってもらってきた恩も被って来たのだし、読売新聞の販売店の出版していた発行部数の15000部の「おはようドミンゴ」という最強部数の八紘を誇るタウン誌の、毎月の広告を応援していただいてきたのが、」このおおうち書店であったから、たまに」原町に来た時ぐらいはこの懐かしく親しい書店で最新作を買うのは、ぼくの責務でもあるからであった。
 さて、時あたかも「フクシマフィフテイ」というのは、有名な単語で、英語でいうとおりに、福島の50人という意味の言葉である。
そのころ、まだ生まれていなかったいま10歳以下の諸君にはわからんだろうが、いちおう説明しておこう。

2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震の後に発生した津波によって福島第一原子力発電所の原子炉の冷却機能が停止し、それらの復旧作業や応急処置のために同発電所には社員を含め約800人の従業員が従事していた。しかし、懸命の復旧作業にもかかわらず、原子炉1号機の水素爆発など度重なる原子炉爆発事故が発生し、遂に3月15日には、原子炉4号機の爆発と火災が発生。この4号機の爆発は使用済み核燃料プールに保管していた「使用済み核燃料」が建屋(たてや)上層にあり、爆発によってそれが露出した可能性があることと、放射性物質が飛散した可能性があるため、これらの危険回避の為に人員約750人は東京電力の指示によって避難した。しかし、約50人が現地にとどまり、福島第一原子力発電所の被害を食い止めることに尽力した。これを日本国外メディアが彼らを地名と人数を合わせた「Fukushima 50」の呼称で呼び始めた。Wikipedia

Fukushima 50 fukushima fifty

  Yさんは原町キリスト教会のメンバーの一人で、家族ぐるみの信者だった。1993年の秋、オーストラリアの公立ランコーン高校の生徒20数人と2人の引率教師の二週間の宿泊を引き受けてくれないかと後輩のPIEE(太平洋国際教育組織)の鈴木君から要請されて、ホームステイしてくれる家庭を募った。同財団は、三木首相夫人なども参加する篤志家が始めた日米欧間を中心に高校生ら若い世代に海外相互での国際理解を与えることで、世界平和に寄与するという目的の組織。しかし、受け入れ団体が宿泊のすべての費用を受け持つ。ボランテイアによる奉仕が基本だ。
 せっかく滞在期間中は日本文化に親しむ機会を増やしたい。ホストファミリーには普通の共働き家庭もある。老若男女さまざまな状況で、国際理解に参加したいという意志だけが共通なので、平日の日中はすべてカリキュラムを組んで行動し、土日だけ週末をホストと一緒に生活してもらうことにした。わたし自身は文筆業なので収入はしがないが時間だけはたっぷりある。土日は担任教師を一泊二日の福島旅行で会津散策と五色沼ツアーで家族とともにモーターボートを楽しんだ。私は実家と家族の二重生活をしていたから、二週間すべてをオージーたちと行動した。
 一番苦労したのはマイクロバスの手配である。格安のガソリン代だけで手も地のバスを必要な日程に出してもらうが、どうしても予算のないところは趣旨を理解したうえでタダで出してもらうことになる。けっきょく大熊町の福島第一原子力発電所の見学と、福島県庁への表敬訪問と義母が経営する現地の幼稚園と妻が勤務する公立小学校児童らとの交流会の福島市ツアーに日程を担当してくれたのがY氏だった。
 Y氏は東電社員ではなく、いわゆる協力企業の社員である。そこの企業の社長が外国人との国際理解というものに関心が深く、彼がホストを名乗り出てオーストラリア人高校生の二週間の就学旅行には、一肌脱ぎたいと言ってくれた。しかし、金はない。バスがない。けっきょくその善意の企業に重要な2日のツアーを運転手をやってくれるYさんごと借りることになり、そのうえ原発という興味深い施設の内部まで特別に見せてもらえることになったのだ。

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