遺書がわりに出し歌最後の手紙に、謝辞を述べて当てたホストファミリーの家の名前の中に、丸川という名も出てくる。朝日座の興行師で、芸妓置屋の布川実の娘きみ夫妻の家だ。
 午後から布川和子さんにインタビューしに行った。
 御主人の雄幸さんが、朝日座社長として興行の仕事を一手に仕切っていたが、考えれば和子さんが跡継ぎ娘なので、布川家の歴史は全般部分について和子さんにかかわる家族史である。要所要所で夫がコメントを加えるカッコウだったが、本日は和子さんを中心に仕事をさせてもらった。自分の家庭のように若いときから出入りしていた私にとって、いよいよ集大成の時期に入った。
 終戦69周年の夏。あと1年は、戦時にかかわる南相馬の姿を、さらに発掘し、記録したい。
 布川和子の話。
「山本、西山、小野寺などの将校さん四人が来ていました。少尉や中尉さんです。あとから押田さんとか。わたしは二歳で、子のない布川の家に幼女に来たので、戦争中は義母のきみが特攻隊の人たちをもてなすのを間近で見ていましたし、私が食事を作りました。きみは、どこから手に入れたのか馬肉なんかも入手しましたね。味噌漬けにして、あれはおいしかった。きみはやり手といわれたほどの女丈夫で、布川実とは当時珍しい恋愛けっこんだったようです。親が許さずに、それに反発して東京に出て看護師の仕事もして、看護の技術もあったようです。家に帰ってからしばらく籍は入っていなかったらしいが一緒に暮らした。当時の朝日座は街の旦那衆十二人による組合制の経営で布川実が株主の一人で支配人となり、戦中は門馬永松が社長館主となり、戦後になって株主たちに配当を支払って(65)朝日座は布川実支配人と興行師神谷豊次郎と共同経営になった。
こんなに和子さんから詳しく立ち入った内容を聞いたことはこれまでなかった。

 朝一番、7時半に福島の自宅を出発して、午前9時から八牧美喜子女史の手持ちの写真や書簡なんどを寄贈された先の博物館でダンボール7箱を調べ、ほぼ全容が見えてきた。
そして、ユニークな存在だった原町で最も殷賑をきわめた高級割烹の「魚本」の山本勘太郎の一家にも写真で会えた。
 若き時代のわが母が、とうじの原町郵便局長の奥様が、それまでになかった原町で最初の華道「古流」を教えてくれるというので、同級生の古山愛子さんとともに習いに通ったという。そこでの珍しい男性の生徒が「勘ちゃん」だった。
 勘ちゃんこと、山本寛太郎さんは、原町の割烹魚本の主人で、結婚して二人の子供もいる、いかにも男らしい体格の男性だった。

 布川雄幸は、石神の渡辺滝蔵の息子として誕生。相馬農業学校を卒業して、海軍へ。呉で訓練を積み、戦艦長門に乗り組み、横須賀の鎮守府で潜水艦乗りに転じた。「わたしは特攻要員だったんですよ」、あと半年戦争が続いたら、震洋、伏龍などの終戦間際の特攻兵器で命を捨てたかも知れなかった。戦後、宮城県農業試験場の技師になったが、映画好きが昂じて給料のほとんどを名作に費やした。朝日座の経営者に気に入られて、跡継ぎの和子さんの婿になって、朝日座の後継者に。こんにちの国登録文化財指定まで、歴史的建造物として守り通してきた。原町および相馬地方で唯一の映画館芝居小屋が残ったのは彼の功績である。

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